幕末日本の歴史江戸時代

幕末を動かした主役「薩長土肥」幕末における4つの藩をわかりやすく解説

日本史の中でも特に有名であり人気な時代である幕末。この時代において日本では水戸藩・白河藩・長岡藩・岡山藩・松江藩・仙台藩など数々の藩や偉人が活躍しましたが、その中でもこの幕末は明治時代に入り政治を動かしていった薩長土肥と呼ばれる藩士達が特に活躍した時代でもあったのです。 そこで今回はそんな薩長土肥の藩がどのようにして幕末を動かしそして明治時代を支えていくようになっていったを見ていこうと思います!

薩摩藩(鹿児島藩)【 石高:薩摩・大隅77万石・藩主:島津家・思想:佐幕のち倒幕】

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最初に紹介するのは薩摩藩。この藩は元々関ヶ原の戦いにおいて西軍についたにも関わらず薩摩・大隅77万石を統治する加賀藩に次ぐ2番目に大きい藩だったのです。

そんな薩摩藩がどうして倒幕派となって行ったのかを薩摩藩の動向と一緒に見ていきましょう。

元々は幕府を支えていた薩摩藩

今でこそ倒幕派の主格の藩として知られている薩摩藩ですが、薩摩藩が薩長同盟において長州藩と同盟を結ぶまでは幕府を支える佐幕派の一員でした。例えば薩摩藩主の娘である天璋院篤姫は第13代将軍徳川家定に嫁いでいますし、また藩主自身も幕府の老中と協力してと朝廷を合体させる公武合体派を推し進める改革文久の改革を断行するなど幕府に尽力していました。しかし、薩摩藩は最終的には皆さんご存知の通り倒幕派に転換します。一体薩摩藩に何があったでしょう?次は薩摩藩の転換について見ていきましょう。

薩英戦争、そして薩長同盟

薩摩藩の思想が佐幕から倒幕に変わった最大の理由として薩英戦争がありました。薩英戦争とは字で分かるかもしれませんが薩摩藩とイギリスの間で起こった戦争です。

その戦争が起こった理由は元々薩摩藩は文久の改革を推し進めていたのですが、その帰り道に大名行列をイギリス人が横切って、それに激怒した薩摩藩士が斬り捨てたというもの。「情けないなぁ」と思うかもしれませんが、当時日本は大名行列を横切ることは言語道断。それが例えイギリス人であっても許すことは出来ません。

そしてイギリスと薩摩藩の間で犯人の引き渡しや賠償金の問題を話しているうちに戦争が勃発。薩摩藩はイギリス戦艦にある程度打撃を与えますが、この戦争は引き分けに終わり薩英戦争はひとまず終結しました。

薩摩藩はこの時ようやく「日本を近代化させないとイギリスなどにやられる」ということに気づきます。「そしてその近代化のためには幕府を潰さなければならない」という判断に至った薩摩藩は元々倒幕派の藩士である大久保利通と西郷隆盛を起用。薩長同盟や鳥羽伏見の戦い後の戊辰戦争などで大車輪の活躍を見せて明治維新後には薩摩閥とも呼ばれる巨大派閥を築き上げて明治時代の政治を大きく動かすことになっていくのでした。

長州藩【石高:長門・周防36万石・藩主:毛利家・思想:倒幕】

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薩摩藩と並んで幕末のキーパーソンとなり、最終的には明治政府の主格となった長州藩。元々この藩は広島をはじめ中国地方を支配していた大大名であり、西軍の総大将であった毛利家が治めており、幕府から目をつけられていました。

しかし、長州藩はそんな幕府からの圧力に負けず倒幕を貫き最終的には明治維新を成し遂げることになるのです。

次は長州藩の倒幕の歴史について見ていきましょう。

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