幕末日本の歴史江戸時代

幕末を動かした主役「薩長土肥」幕末における4つの藩をわかりやすく解説

薩長同盟を仲介して倒幕に貢献

こうして土佐藩では下士中心に倒幕活動を行なっていく事になるのですが、土佐藩の最大の功績といえばやはり坂本龍馬による薩長同盟の仲介だった思います。元々薩摩藩と長州藩は元々薩摩藩が佐幕派だったこともあり第一次長州征伐から関係は最悪でした。しかし、龍馬はこの二藩を結びつける事に成功すれば倒幕をすることができると判断。龍馬は薩摩藩から大量の武器を買い上げてその武器を長州藩に売り渡すという懸命な活動を行い最終的には同盟が成立。幕府に対抗することができるこの二藩が手を結んだことは非常に影響が大きく、第二次長州征伐の勝利などここから一気に倒幕へと向かっていきます。

明治時代に入ると土佐藩士は明治六年の政変で板垣退助中心に多くの人が政府から去りますが、その後は自由民権運動の中心なるなど日本における民主主義に貢献したするなど政府に対抗する勢力となったのでした。

肥前藩(佐賀藩)【石高:肥前35万石・藩主:鍋島家・思想:日和見のち倒幕】

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明治維新の時の新政府の重要メンバーという意味で呼ばれた薩長土肥。しかし、薩長土肥の中でなぜ肥前藩が入っているの?という人もいると思います。しかし、肥前藩という藩はこれまでに紹介してきた藩よりも別格レベルの進んだ教育システムと西洋の文化を取りいてていた日本の藩の中でも特に先進的であった藩だったのです。最後は薩長土肥には入っているものの、あまり活躍したのかはよくわからない肥前藩について見ていきましょう!

日本で一番先進的だった肥前藩

肥前藩という藩は肥前国(今の佐賀県・長崎県)にあった藩でした。

ここでわかる方はなかなかのものですが、当時長崎というのは日本唯一の国際港である出島があり、肥前藩は福岡藩と一緒にその出島を管轄する長崎奉行を任されていた藩でもありました。そのため肥前藩はオランダから入ってくる技術を一番学ぶことができる日本でも珍しい藩だったのです。

そんな日本でも近代化しやすかった肥前藩ですが、幕末の肥前藩を主導していくことになる肥前藩第10代藩主鍋島直正はここに目をつけたそうで、オランダから学んだ技術を藩士に学ばせ、1849年には日本初の製鉄所を完成。1852年には反射炉も稼働させるなどオランダの技術を肥前藩にフル活用していたことがわかりますよね。しかも本格稼働した1852年は黒船が浦賀に来航する1年前の出来事。もちろん江戸の方は反射炉なんてものは存在していません。これを見るといかに肥前藩が先進的な技術を手に入れていたのかがわかりますね。さらに黒船が来航した後でも肥前藩は黒船が来た翌年には当時久留米の有名な発明家であった田中久重(東芝の創業者)とともに黒船を製造に成功。1865年には黒船に劣らないほどの蒸気船を進水させ日本中を驚かせました。

日和見主義だった肥前藩

肥前藩の特徴の一つに最後の最後まで倒幕と佐幕のどちらにもつかなかったという日和見主義だったことが挙げられます。

ぶっちゃけると肥前藩がついた時点で勝ちと言っていいほど肥前藩というのは強い藩です。しかし肥前藩は鳥羽伏見の戦いの時まで動くことはありませんでした。これには理由があり肥前藩という藩は近代化を推進していた上で日本でも例を見ない鎖国藩としても有名だったのです。つまり藩にこもって幕末の動乱のことを考えることはなかったのでした。その日和見主義は凄かったもので薩長の新政府首脳は「幕府と合わせて肥前藩も討伐するべきだ!」と言い放ったほど。しかし、この土壇場で肥前藩が倒幕思想を表明して江藤新平を派遣することになり、戊辰戦争における北陸道侵攻・上野戦争などでは肥前藩が自国で生産させたばかりのの近代兵器アームストロング砲を利用して新政府軍の勝利に貢献したのでした。

官僚として優秀だった肥前藩士

肥前藩が薩長土肥の一つになった理由の一つに肥前藩士がとんでもなく有能だったことにあったと思います。肥前藩は上にも書いた通りオランダで学んだ西洋の知識を藩士に教える日本屈指の教育藩としても知られていました。

その中でも日本の司法制度を整え江戸を東京に改名した江藤新平・早稲田大学の創始者であり日本初の政党内閣を組閣した大隈重信などを輩出するなど日本の近代化に貢献する重要人物を続々と輩出したのです。

影に隠れてあまり日の目を見ない肥前藩でしたが、官僚として見たら肥前藩士は薩長の藩士に劣らないほどの貢献をしたのですね。

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