幕末日本の歴史江戸時代

幕末を動かした主役「薩長土肥」幕末における4つの藩をわかりやすく解説

徳川打倒と外国排除を目指して

薩摩藩は最初の頃は佐幕派として幕府と協力したという事実がありましたが、長州藩といえば最初から最後まで徳川打倒を掲げ倒幕を行った事でも有名だった通り長州藩はすごく徳川幕府を憎んでいました。

実はその裏には関ヶ原の戦いにおいて徳川家に刃向かい領地を大きく減らされた事をかなり憎んでいたという背景が存在していました。要するに徳川によって大きくプライドを傷つけられたというわけですね。さらに長州藩のもう一つの特徴といえばやはり過激なまでの攘夷論の強さでした。攘夷というのはわかる人もいるかもしれませんが、要するに外国人を日本から追放しようとする思想でした。吉田松陰の私塾である松下村塾は有名ですね。長州藩はそれに基づいて下関海峡を通ろうとする外国船を次々と砲撃。外国人を暗殺するなど過激な行動に出てしまい、長州藩は一気に幕府から目をつけられてしまう結果となってしまいました。

攘夷から倒幕一筋に方針変換

こうしてどんどん外国人を暗殺していった長州藩の藩士たち。しかし、そんな事外国人が許すはずもなく長州藩はイギリスなどの四カ国連合艦隊によって下関の砲台を占領され賠償金を払わせられる羽目に。さらには目に余る長州藩の行動を見兼ねた京都守護職の松平容保が八月十八日の政変と呼ばれるクーデターによって長州藩の藩士たちを京都から追放しました。さらにトドメと言わんばかりに幕府によって第一次長州征伐が実行。もはや踏んだり蹴ったりの長州藩は攘夷派の藩士を粛清することを条件に幕府に対して土下座。長州藩は一転佐幕の藩に様変わりしてしまいました。

しかし、もちろんそんな事松下村塾で学んだ志士たちにはたまったもんじゃありません。佐幕派の追撃から逃れた志士の1人である高杉晋作と伊藤俊輔(のちの伊藤博文)功山寺と呼ばれるお寺で挙兵。長州藩の本拠地の萩城に攻め上がりクーデターを実行。長州藩を再び倒幕派の藩にする事に成功しました。

薩長同盟と第二次長州征伐

こうして再び倒幕派となった長州藩。もちろん幕府はこのことを黙って見るはずもありません。幕府は再び長州征伐を決意。大軍を率いて長州藩に攻め始めたのでした。しかし、長州藩も2度目となれば対策をしてきます。長州藩は土佐藩士の坂本龍馬の仲介もあり八月十八日の政変から仲の悪かった薩摩藩と同盟。薩摩藩の長州征伐参加を阻止して長州藩は薩摩藩の近代的な武器をどんどん購入していき軍備を整えました。そのかいあって第二次長州征伐と呼ばれる幕府との戦いは大勝利。幕府の権威を失墜させ日本を一気に倒幕の方面に持っていくことに成功しました。

そしてその翌年には大政奉還によって幕府は崩壊。王政復古の大号令が出された後、長州藩は明治新政府の主格として活躍していくことになるのです。

土佐藩(高知藩)【石高:土佐24万石・藩主:山内家・思想:佐幕】

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次に紹介するのは土佐藩。この藩は坂本龍馬の出身藩ということもあってなかなかなメジャーだとは思いますが、土佐藩という藩は幕末の中では一番藩士の構造が複雑だった藩でもあったのです。次はそんな複雑だった土佐藩について見ていきましょう。

複雑であり対立していた藩の構造

土佐藩を語る上でどうしても語らなければいけないのが土佐藩内の藩士対立でした。

土佐藩の藩主は山内家という関ヶ原の戦いでは真っ先に家康側について家康に目をつけてもらえて、本戦では余り活躍しなかったものの戦後には土佐一国の国持大名にしてもらえたらという背景があったまさしく徳川LOVEな家でした。

しかし、土佐国の実情は山内家の感情とは真逆でして、元々この土佐を治めていた長宗我部家がなんと西軍についた武将であり、さらに改易された後でも大坂の陣において最後まで徳川家に刃向かい続けたまさしく徳川アンチな家だったのでした。これが土佐藩の構造をややこしくしてしまう結果となってしまい、元々山内家に仕えていた家臣の子孫の藩士達は上士と呼ばれる格式高い武士として取り立ててもらえるのに対して、元々長宗我部家に仕えていた家臣の子孫の藩士達は下士と呼ばれ何かと差別されるいわゆる格差が生じてしまったのです。

ちなみに、土佐藩出身の有名な藩士で坂本龍馬は下士、後藤象二郎・板垣退助は上士でした。

二分された土佐藩の判断

幕末に入ると土佐藩内ではその動向についての議論が徐々にされ始めていくのですが、上士や藩主の山内家は幕府を支えるために公武合体と呼ばれる幕府と朝廷が手を結んで世界に対抗していくという佐幕的な考えを持っていたのに対して、下士達は倒幕一筋。徳川打倒を目指して新しい世の中を開こうとしていた通り、その考えは上士と下士で真逆だったのです。

その背景にはやはり、元長宗我部家の家臣としての意地や、さまざまな場面で虐げられていた恨みというものがいろいろ混ざり合い、その感情が倒幕の原動力へと発展させていったと私は考えています。坂本龍馬の『日本を今一度せんたくし申し候』という名言はこのような差別をなくそうとし幕府の体制をひっくり返そうとした意志の表れだったのかもしれません。

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