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【戦国の勝利者】徳川家康の歴史と共に7つの関連史跡もご紹介!

三英傑の一人で戦国の世を実質的に終わらせた人物「徳川家康」。徳川幕府260年の太平の世の礎を築きますが、天下人になるまで決して順風満帆ではなかった彼の人生を振り返っていきます。そして、徳川家康にまつわる史跡も合わせてご紹介していきますので、旅行などの際にぜひ訪問してみてはいかがでしょうか。

相次ぐ肉親の死と人質生活

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三河国(現在の愛知県西部)で生を受けた家康。幼名は竹千代。彼が生まれた松平家は元々は室町幕府に仕える伊勢氏の家臣筋でした。幕府直轄地の運営を任された松平氏は、徐々に勢力をたくわえて三河守護をも凌駕する勢力となり、家康の祖父「松平清康」の代には岡崎城に本拠地を移し、実質的に三河の国主同然となるまでに成長していたのです。

祖父と父の死で揺れる松平家

家康が生まれる8年前、家康の祖父にあたる清康が家臣によって暗殺されてしまいます。三河国統一まであと一歩だった松平家も、清康の死によって瓦解の道へと進んでいくことになるのでした。

清康が死んだ時、嫡男の広忠はわずか10歳。あまりに幼すぎる当主は一族の内紛を治めることができずに、隣国の戦国大名今川氏の庇護に入りました。いわば体のいい併合だったということ。しかしその後も一族や家臣の離反は相次ぎ、尾張の織田氏に味方するものも多かったのです。

広忠と正室於大の方との間に生まれた竹千代(家康)でしたが、わずか3歳で母親と生き別れ、その父もまた竹千代が人質生活を始めてからしばらくして家臣によって殺されてしまうのでした。それによって松平の居城だった岡崎城も今川氏によって乗っ取られてしまい、竹千代は帰るべき城すら失ってしまったのです。

徳川家康の関連史跡その1【岡崎城】愛知県岡崎市

徳川家康が生を受けた城。浜松城に移るまでの家康の本拠地であり、後に嫡男の信康も入りました。江戸時代に入ると徳川譜代大名の居城として威容を誇りました。明治になってからは廃藩置県に続く廃城令によって建築物の一切を失いますが、昭和34年に復興天守、平成10年に東隅櫓が再建されて現在に至っています。

現在は「日本さくらの名所100選」にも選ばれているほどで、市民の憩いの場となっています。

長い人質生活と駿府での暮らし

数え年で6歳の頃、竹千代は今川氏の人質として駿府(現在の静岡市。今川の本拠)へ送られることになりました。松平氏が今川を裏切らないようにするための措置だったのです。

ところが、送迎の任にあたっていた親族の裏切りに遭い、敵対していた織田氏のもとへ送られることになったのでした。この織田氏の監視下で過ごしていた2年の間に父の死があり、松平氏の三河支配が途絶し、ようやく解放されたといっても岡崎へ戻ることは許されず、そのまま駿府で過ごさざるを得ないことに。

駿府で過ごした間に竹千代は元服し、名を「元信」と改め、さらに祖父の偏諱を頂戴して「元康」と改名しました。そして正室も娶います。今川家臣関口親永の娘で名を瀬名。後の築山殿でした。

徳川家康の関連史跡その2【報土寺】静岡県静岡市葵区

竹千代が駿府で人質を過ごしていた時代に屋敷があった場所だといわれています。

「駿河志料国府別録」によれば、江戸時代中期の元禄年間に報土寺の敷地内に幼君(竹千代のこと)が暮らした館跡があったとのこと。当時は宮ヶ崎御旅館と呼んでいたらしく、現在の寺名は「宮崎山 宝池院 報土寺」となっています。

徳川家とはゆかりが多い寺で、家康から拝領した墨絵観音や茶碗、4代将軍家綱公直筆の「天下平の三文字」などが所蔵されています。

桶狭間の戦いと念願の独立

ずっと駿府暮らしを余儀なくされていた元康にとって、まさに青天の霹靂ともいうべき出来事が起こったのは永禄3年(1560年)のことでした。今川義元が2万5千もの大軍勢を催して尾張へ進軍したのですが、尾張の風雲児「織田信長」の奇襲攻撃に遭い、あっけなく討ち死にしてしまったのでした。

その頃、元康は今川軍の先鋒として従軍していましたが、今川方が大混乱に陥る中、戦場を脱出し、空っぽになった故郷の岡崎城へ入ります。これ以後の元康の行動は素早く、周囲の今川の属城を攻略して確実に地歩を築いたのでした。今川の柱石である義元を失い、凡庸な息子氏真が相手では戦いもたやすく、ついには義元からもらった「元」の字を返上し、名を家康と改めたのでした。

そして三河の戦国大名としての第一歩を踏み出した家康、今川を見限って今度は敵であったはずの織田信長と結ぶことに。これが有名な清州同盟。この同盟は信長が亡くなるまでずっと続くことになるのです。

徳川家康の関連史跡その3【桶狭間古戦場】愛知県名古屋市緑区

若き日の家康の運を開いた戦いの場所です。今川義元最期の地には「桶狭間古戦場公園」があり、合戦当時の地形や砦などを再現。また、古戦場保存会のガイドさんによる案内も数コースあり、予備知識がなくとも楽しめる場所となっていますね。

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明石則実