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【戦国の勝利者】徳川家康の歴史と共に7つの関連史跡もご紹介!

信長との同盟と武田との戦い

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織田信長と同盟を結ぶことにより大きな後ろ盾を得ることができ、なおかつ今川領だった遠江国も領国化した家康でしたが、本当の敵が迫ろうとしていました。それが戦国最強を謳われた武田氏でした。武田氏との10年にも及ぶ戦いが始まろうとしていたのです。

武田の前に手痛い敗戦【三方ヶ原の戦い】

その頃には姓も「徳川」と改め源氏を名乗り、信長が天下取りのために上洛するや、その最も良き協力者となったのが家康でした。三河の軍勢を率いて朝倉軍や浅井軍と戦い、時には危うい目に遭いながらも同盟者としての義務を果たそうとしていました。しかし、時の足利将軍義昭の要請で武田信玄が信長包囲網の一翼を担うや状況は一変します。武田氏の大攻勢を徳川がまともに受けることになったのでした。

元亀3年(1573年)、西上の途についた数万の武田軍は甲斐国を発し、家康の居城浜松城へ近づいていました。当初は籠城するつもりだった家康でしたが、武田軍が浜松城を素通りするかのような動きを見せたため、急遽これを追撃するために出陣したのです。しかしこれを万全な形で迎え撃った武田軍の前に、ほんの2時間ほどの戦闘で敗北。浜松城へ逃げ帰る羽目になったのでした。あまりの恐怖で家康が馬上で脱糞したという逸話はあまりにも有名ですね。

この敗戦で手も足も出なくなった徳川軍でしたが、ここでも運は家康に味方します。三河の野田城を攻めている間に武田信玄の病が重くなり撤退。甲斐へ帰還する途上で信玄が亡くなったのでした。窮地を脱した家康でしたが、信玄が死んだとはいえ武田は強国。まだまだ気は抜けません。

 

徳川家康の関連史跡その4【浜松城】静岡県浜松市中区

岡崎城を出た家康が次に構えた本拠地です。江戸城へ移るまでの20年間をここで過ごしました。

江戸時代には譜代大名の「出世城」といわれ、ここを居城とした大名が多く老中などの幕閣要職につくことになりました。現在は桜の名所としても親しまれ、多くの観光客でにぎわっています。

武田勝頼の勢いを完全に止めた戦い【長篠合戦】

武田信玄の名跡を継いだのは息子の勝頼でした。この勝頼、父以上に好戦的でまたしても徳川は攻撃の矢面に立たされたのです。徳川にとって重要拠点である高天神城を奪われ、西三河の要地「長篠城」も猛攻に晒されて落城寸前となりました。そこで家康は居てもたってもいられずに信長に救援を請うことに。三方ヶ原の戦いの時とは違って今度は信長直々に出陣することになったのでした。

長篠城に程近い設楽ヶ原で決戦は行われました。朝から昼過ぎまで続いた戦いで武田軍は壊滅。多くの名の通った武将が討ち死にし、勝頼も命からがら甲斐へ逃げ帰ったのでした。この戦いで活躍したのは鉄砲でしたが、長篠城で頑張った城兵や武田軍に奇襲をかけた別動隊の働きがあったからこそだと言われています。それらはみな徳川の将兵たちでした。

徳川家康の関連史跡その5【設楽ヶ原古戦場】愛知県新城市

戦国最強といわれた武田軍をおおいに打ち破った長篠の戦いの主戦場跡。当時の馬防柵が再現されており、連吾川を挟んで両陣営の陣跡も一望のもとに見渡せます。

また近隣には設楽ヶ原歴史資料館もあり、多くの歴史的史料を見分することができます。

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明石則実