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【戦国の勝利者】徳川家康の歴史と共に7つの関連史跡もご紹介!

相次ぐ有力者の死と豊臣政権の瓦解

家康が関東へ移ったのち、まず秀吉の弟である豊臣秀長が亡くなります。そして政局の相談役でもあった千利休も秀吉の勘気を蒙って切腹。さらには秀吉の老いの為せる業か甥であるはずの関白秀次ですら謀反の疑いをかけた上で切腹に追い込んだのです。豊臣政権の屋台骨を支える実力者たちが相次いで死んでいくにしたがって秀吉自身もその耄碌ぶりを晒け出すことに。

その最も愚昧な行いが朝鮮出兵でした。日本中の武士たちを動員して朝鮮を荒廃させたばかりか大名たちや民衆たちをも疲弊させ、なんら得ることのない無駄な戦いが続いたのでした。しかし、そんな中でも徳川だけは出兵せずに状況を静観していたのです。それはもちろん来るべき時のために力を蓄えておくため。

 

そして関ヶ原合戦へ

そんな朝鮮出兵の最中、秀吉がついに死去します。既に五大老筆頭だった家康は秀吉の嫡子秀頼の後見として強権を振るうことに。豊臣政権内の武断派と文治派との対立を巧みに利用し、分裂させることにも成功しました。

そして石田三成をはじめとする反徳川の大名たちを焚きつけるために、わざわざ会津出兵という大義名分をもって遠征をおこない、その留守の間に武力蜂起させたのです。東軍と西軍に分かれ、天下未曽有の大乱となりましたが、結果は徳川を中心とした東軍の大勝利に終わりました。

戦後処理として反徳川勢力を一掃し、豊臣家をわずか65万石の一大名とすることとし、ほぼ天下を掌握することに成功したのでした。

関ヶ原合戦から3年後、家康は征夷大将軍に任ぜられ、名実ともに天下人となったのです。大坂の陣で豊臣氏が滅んだことにより戦い自体は終わりを迎えますが、既にこの時から徳川の世は始まっていたといえるでしょう。

徳川家康の関連史跡その7【関ヶ原古戦場】岐阜県不破郡関ヶ原町

古来より関ヶ原は主要な街道が交わる要地で、南北朝の頃にも大きな戦いがありました。天下分け目の関ヶ原合戦が行われた古戦場には多くの武将の陣所跡が残り、当時の合戦の様子を思い起こさせてくれます。とにかく古戦場は広いので、半日~1日歩き回ることが可能。体力や天候によってコースを考えてみるのも楽しみの一つかも知れません。

徳川家康の史跡を巡ってみよう

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ここまでご紹介した家康にまつわる7つの史跡。実際に巡ってみて家康の信念や情熱に思いを馳せるのもいいのかも知れませんね。こうしてみると家康の運命を決定づけた史跡が、主に東海地方だということがよくわかります。たしかに三英傑はみんな現在の愛知県の出身ばかりですから、そういう意味では偶然ではないのかも知れませんね。

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明石則実