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【戦国の勝利者】徳川家康の歴史と共に7つの関連史跡もご紹介!

本能寺の変と天正壬午の乱

武田を大いに打ち負かしたとはいえ、家康にとって良いことばかりではありませんでした。信長の強権によって正室の築山殿と嫡男の信康が自害させられてしまったのです。理由は武田に内通したかどでしたが、一説によると信康の武将としての器量に信長が危機感を覚えたからだとも言われていますね。従属的同盟とはいえ、家康にとってはつらい選択だったことでしょう。

そして天正10年(1582年)、念願の武田が滅亡し、ようやく重圧から解放されたものの、それからわずか半年足らずで信長までもが京都の本能寺で暗殺されてしまったのです。当時家康は堺にいて危うく難を逃れますが、三河へ帰りついた頃には既に羽柴秀吉が仇敵の明智光秀を討ち果たしており、家康の出る幕はなかったのでした。

そこで家康は別の戦略に出ます。信長の家臣たちは甲斐と信濃を領していましたが、本能寺の変に伴って皆上洛し、空き家同然となっていたのでした。それらの土地を虎視眈々と狙っていた北条氏とも戦い勝利し、甲斐信濃両国のほとんどを手中に収めることに成功したのでした。

豊臣政権への臣従と関東への領地替え

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従来の三河、遠江に加えて駿河、甲斐、信濃をも手に入れた家康。いよいよ天下人秀吉との対決が始まることに。この対決を乗り切ったことが後の天下掌握への道しるべとなったのです。

家康と秀吉との全面対決【小牧長久手の戦い】

明智光秀、柴田勝家と次々にライバルを倒していった秀吉。次の標的は家康でした。信長の次男である織田信雄と同盟した家康は素早く尾張へ出兵し、かつては信長の居城があった小牧山へ進出します。秀吉本隊も動き、小牧付近で両軍にらみ合うことに。

膠着した状況打開のために、秀吉の甥である羽柴秀次が池田恒興ら一軍を率いて家康の本拠三河へ殴り込みをかける作戦に出ます。しかしその動きを見て取った家康は、多くはない兵力をわざわざ割いて迎撃に向かわせることに。油断した秀次軍は徳川軍の猛攻を受けあっけなく壊滅。多くの死傷者を出して敗退することになったのでした。

この手痛い敗戦が身に沁みた秀吉は、敵対していた織田信雄を懐柔し講和。家康自身も戦う意味がなくなってしまったため講和に応ずることになったのでした。

徳川家康の関連史跡その6【小牧山】愛知県小牧市

元々は織田信長が美濃攻略のために築いた本拠地。その後廃城となりますが、小牧長久手の戦いの際に徳川家康が本陣を置きました。城として構築した場所だったために秀吉軍も安易に攻めかかれなかったといわれていますね。

現在は山頂に天守閣風の小牧市歴史館が建ち、夜にはライトアップもされています。土塁や堀など当時の遺構も多く残るので歴史初心者から上級者まで幅広く楽しめる場所なのですね。

本拠地を関東へ移す

徳川の力を身をもって知った秀吉は、戦って叩き潰すのではなく懐柔して臣下として迎えようと考えました。なかなか首を縦に振ろうとはしない家康に対し、秀吉は自分の妹を輿入れさせるだけでなく母親までも人質として下向させて、なんとか臣下とすることにしたそうです。

こうして豊臣政権に組み入れられた徳川家。相応の待遇で家康は迎えられましたが、実のところ秀吉は家康の力量を心底恐れていました。豊臣に楯突いた北条氏が滅ぼされた後、そのままそっくり徳川を関東に移封させることで僻地に押し込めようとしたのかも知れません。現に関東の徳川氏を取り巻く地域には、会津に蒲生氏、浜松には堀尾氏、甲斐には加藤や浅野など、秀吉子飼いの家臣で固められていたからですね。

関東へ移り、江戸城に本拠を構えた家康はじっくりと領国の整備に取り掛かるのでした。

秀吉の死と天下取りの野望

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家康が関東へ移るや情勢は大きく変化していきました。相次ぐ有力者の死と秀吉の老い。時間は刻々と家康に味方しつつあったのです。

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