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ノーベル賞の起源とは~ノーベル賞を創設した男の人生は矛盾だらけ!?~

ノーベル賞は、世界で最も権威ある賞のひとつとして、毎年12月10日に授与式の行われるスウェーデンのストックホルムに世界中の目が注がれます。そんな「ノーベル賞」を創設したのが、科学技術者アルフレッド・ノーベルです。ノーベルは、どんな生涯を送ったのでしょう。それを調べると、彼の人生にはたくさんの矛盾があることに気が付きます。この記事では、アルフレッド・ノーベルの矛盾の人生、その謎についてせまります。

アルフレッド・ノーベル 矛盾の人生

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ノーベル賞を創設した男、アルフレッド・ノーベルの人生の矛盾を、ここでは3つピックアップしました。

平和活動に従事」し、人類の平和を願ってノーベル賞を創設したノーベル、
彼のもっとも有名な発明品は、「戦争で多くの人を殺す」道具として使われたダイナマイトでした。

強烈な破壊力」ですべてを吹き飛ばすダイナマイトを発明したノーベル、
彼は幼いころ、友達と外で遊ぶよりもベッドの上にいたほど「病弱でひ弱」でした。

工場の爆発で「弟が爆死」し、悲しみのどん底に突き落とされたノーベル、
それでも爆薬を開発し続け、できあがったのが「ダイナマイト」でした。

病弱でひ弱な少年と火薬の出会い

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アルフレッド・ノーベルの発明でもっとも有名な「ダイナマイト」、それは強烈な破壊力ですべてを吹き飛ばす力を持っていました。しかし、そんな発明をしたノーベル自身は、子どもの頃とても繊細で病弱でした。どうしてそんな彼が、強い破壊力をもつダイナマイトを発明するに至ったのでしょうか。

病弱でひ弱な少年時代

アルフレッド・ノーベルは、1833年にスウェーデンのストックホルムで、イマヌエル・ノーベルの三男として生まれました。「ノーベル」は苗字なので、彼のことは「アルフレッド」と呼ぶ方がいいのですが、慣れていることもあるので、便宜上「ノーベル」と呼びます。2歳上と4歳上の兄たちは健康でしたが、ノーベルは幼いころからひ弱で病気ばかりし、学校も欠席しがち、ましてや同年代の遊び友達もいませんでした。

そんな少年が、いったいどこで爆薬と出会ったのでしょうか。答えは、父の仕事にあります。建築家であり、発明家である父イマヌエルは、ノーベルが4歳のとき、借金取りから逃げるために一家を残して、ひとりロシアに移住していました。そのロシアで、彼が改良した「機雷(海上に浮かべて爆発させ、敵の船をしずめるもの)」が軍の目にとまり、ロシア政府からたくさんの報酬をもらうと、父は一家をロシアに呼び戻し、家族一緒に暮らすようになりました。父は自分の工場を息子によく見学させました。特に、ノーベルは毎日のように工場に行くようになり、そのうち火薬の製作工程や、地雷の実験まで見せてもらうようになります。これが、ノーベルと爆薬の出会いでした。

爆薬と人生を歩む決意

ノーベルが17歳のとき、父から大きな仕事を頼まれます。それは、二年間にわたるヨーロッパ・アメリカの科学技術の視察旅行でした。父は自分の工場を世界で一番の技術をもった工場にするために、外国語が堪能で、工場の仕事にもよく興味をもって勉強していたノーベルに世界をまわらせ、先進技術を学ばせようとしたのです。

十九世紀は科学技術が大きく進歩した時代でした。特に鉄道や蒸気船。これらは石炭がなければ動きません。鉱山では爆薬を使って石炭を掘り進めます。トンネルづくりやレールをしく作業にも爆薬が必要でした。世界各地の先進技術を目の当たりにしたノーベルは、爆薬こそが新しい世紀を開くカギだと確信しました。こうして、ノーベルは自分の人生を爆薬とともに歩む決意をかためるのです。

悲劇の代償に開発されたダイナマイト

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爆薬の可能性を信じたノーベルは、帰国後、自ら威力の強い爆薬を開発するほどになります。しかしその爆薬はたびたび爆発事故を起こし、世界各地で犠牲者を出しました。なんとそこには、大切な家族も含まれました。それでもノーベルは爆薬の開発をやめませんでした。こうして出来上がったのが「ダイナマイト」です。なぜ、ノーベルは、爆薬で大切な家族を失ったにもかかわらず、発明を続けてダイナマイトをつくったのでしょうか。

新たな爆薬の開発

ノーベルが二年の視察旅行から帰ってほどなく、親子の会社は激動の波にのまれることになります。ロシアがトルコとの戦争を始めたのです。一時はロシアの軍事省から大量の兵器の発注がありましたが、戦争が終わると注文はすべて取り消され、一家は破産してしまいました。父と母と4男のエミールはスウェーデンに帰り、ノーベルと2人の兄はロシアに残って工場再建の道を探ることになります。

工場再建のため、新たな爆薬の開発実験を繰り返すノーベルに、人生を変える出会いがおとずれました。イタリアの科学者ソブレロが作り出した「ニトログリセリン」という特殊な液体です。ノーベルは、それまでの火薬とは比べ物にならないその破壊力に圧倒されました。

しかし、ニトログリセリンは導火線で火をつけても爆発しないのに、少し刺激を与えただけで爆発してしまう厄介な性質がありました。ソブレロはこの性質上、爆薬として実用化するのは難しいと考えていました。しかしノーベルは、ストックホルムに戻って実用化の研究に熱中します。ノーベルは火薬を使って第一の爆発を起こし、その衝撃によってとなりに置いたニトログリセリンを爆発させる、二段構えのやり方をあみだしました。これを「起爆法」といいます。そしてこの技術を応用した「ノーベル油状爆薬」を商品化し、売り出しました。

多発する爆発事故と家族の死

「ノーベル油状爆薬」は、世界各国でヒット商品になりました。しかし成功のよろこびもつかの間、一家を悲劇がおそいます。工場で爆発事故が起こり、5人が死亡する大惨事となったのです。しかもその中には、弟エミールが含まれていました。油状爆薬は取り扱いが難しく、落としたり衝撃がかかると大爆発を起こしたので、その後も爆発事故は続き、世界中で犠牲者が出ました

世間はノーベル一家を「人殺し」と呼び、新聞も事故の責任を厳しく追及、スウェーデン政府からは、工場を建てる場所も制限されてしまいました。さらには油状爆薬を禁止する国も出てきて、ノーベルは崖っぷちに立たされます。

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