- 三国志の魏志にある「親魏倭王」とは
- 三国志魏志倭人伝とは
- 倭王は卑弥呼だったのか
- 「漢倭奴国王」と「親魏倭王」の違い
- 九州の紀元後1世紀に影響を与えた前漢末から後漢初期の混乱
- 3世紀頃の九州北部の変化
- 「漢倭奴国王」の金印は見つかったが「親魏倭王」の金印は不明
- 「親魏倭王」の金印が授与された魏志倭人伝の邪馬台国はどこにあったのか
- 倭国は邪馬台国だったのか
- 「親魏倭王」の倭国とはどのような国だったのか
- 魏志倭人伝によると海洋民族と稲作民族がいた
- 日本列島では稲作でも陸稲は古くからおこなわれていた
- 「親魏倭王」がいた倭国の中心の邪馬台国は金印と卑弥呼の墓が鍵
- 邪馬台国がどこにあったかは金印や卑弥呼の墓が見つからないとわからない
- 「親魏倭王」の金印を授与された邪馬台国は今後も古代ロマン
この記事の目次
三国志の魏志にある「親魏倭王」とは
三国志の魏志倭人伝に記載されている「親魏倭王」の金印は、紀元238年に魏の烈祖明帝(れつそめいてい)から倭国の王である邪馬台国の卑弥呼に対して与えられたとしています。金印そのものは実在するとされていますが、見つかっておらず、なぜ邪馬台国王とせずに倭王となったのか、異民族の女王に何のために与えられたのかはよくわかっていません。
しかも、「漢倭奴王」の金印のように実物(偽物説もある)が発見されていないため、「親魏倭王」の金印は、邪馬台国や卑弥呼などに比べてあまり知られていないのも事実です。金印と言えば、「漢倭奴王」と思っている方も多いと言えます。
しかし、中国では、この両金印が与えられた時期は国内が混乱し、人口崩壊が起こっていた時期に当たっているのです。新の王莽によって乗っ取られた漢王朝が光武帝によって再興された時期と、後漢が崩壊してようやく魏の新皇帝が即位した時期にあたっています。人々の暮らしや国そのものが安定していない時期に与えられているのです。
すなわち、与えた側の中国王朝にも金印を与える必要がある時代だったと言えます。いずれにしても、文字のない時代の日本であり、日本の中にはいろいろな民族がいたのでしょう。
この「漢倭奴王」の金印を中心について詳しく見ていくことにします。
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三国志魏志倭人伝とは
魏志倭人伝は、正式には「三国志魏志東夷伝倭人条」といい、3世紀に日本列島、とくに北九州にいた倭人の国である邪馬台国について書かれています。この倭人条の行程をその記述通りにたどれば、はるか南東の海上になってしまうため、読み方を工夫して邪馬台国の場所を特定しようとする仮説が大量に出回っているのです。基本的には北九州説(東大学派)と近畿説(京大学派)に別れていると言えるでしょう。
金印をはじめ、実際の邪馬台国の場所や卑弥呼の墓は未だに発見されておらず、それゆえ、どの説も実証されていません。それだけに、この古代史最大の謎は今も古代史ファンのロマンを書き立てているのです。
古代史や考古学の学者の方ももっと協力して有力な解釈を見つければよいのですが。今後も、新しい説が出てくる可能性は大きいと言えます。
倭王は卑弥呼だったのか
三国志魏志倭人伝は、実際には後継王朝である晋の時代に書かれた史書で同時代とは言えませんが、時代が近く、後の史書でもそれを参考に記されていることが多い史書です。そのなかでは、魏の使者が実際に邪馬台国に行った記録として記載されています。しかし、先述のように行程をたどればとんでもないところに行ってしまうことからその信憑性を疑う人も多いのです。
倭人伝のなかには、邪馬台国の女王は卑弥呼と記載されています。しかし、なぜ倭人条に邪馬台国が書かれているのかはあまり論議されていません。倭人=邪馬台国とはどこにも記載されていません。倭人条のなかに邪馬台国が入っているということは邪馬台国は倭人が作った国ということは言えます。また、卑弥呼を倭王として金印を与えたということは、卑弥呼=倭王とみなしただけで、実際に倭王であったかはわからないのです。すなわち、邪馬台国は倭人が作った国ではあるものの、倭人全体を統治していたのかはわかっていません。
とくに、当時の魏は三国鼎立の時代であり、朝鮮半島にも反魏の倭族勢力がいた可能性もあり、それらに対する牽制として九州の邪馬台国を倭族の王と認めた可能性もあるのです。
私見ですが、当時朝鮮半島には別の倭族の国や他の異民族の国があったことは確実であり、それらに対しての牽制の意味が大きかったと考えています。
「漢倭奴国王」と「親魏倭王」の違い
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では、「漢倭奴国王」の金印と「親魏倭王」の金印の違いは何なのでしょう。当然、与えられた相手、すなわち国に違いがあり、前漢の時代には「奴国(なこく)」は独立国であったと考えられています。しかし、魏の時代の「奴国」は邪馬台国の一部として描かれているのです。すなわち、約200年の間に北九州にあった多くの国は邪馬台国によって統一されていた可能性が高いといえます。
いずれにしても、北九州地域には吉野ケ里をはじめとして多くの弥生遺跡があり、公園になっているところもありますね。そのため、古代史ファンの関心を引き。多くの方が時間を割いて見に来ているのです。
九州の紀元後1世紀に影響を与えた前漢末から後漢初期の混乱
中国では紀元前10世紀頃の寒冷化で黄河流域にいた民族が南下したことによって長江下流の水稲稲作民や漁労民の倭族が朝鮮南部や北九州に移動を余儀なくされました。まだ縄文時代だった日本列島でも、九州北部には倭族が水稲稲作技術で集落を作って、日本列島に弥生文化をもたらしたのです。その九州北部に定住した倭族たちがそれぞれに国を作り始め、いくつかの国ができたのが、「漢倭奴国王」の金印が奴国王に送られた時代といえます。
その頃には、中国では王莽の新が前漢を滅ぼし、その後の混乱のなかで光武帝が漢王朝(後漢)を再興した時期にあり、朝鮮半島にも多くの難民が押し寄せていたと考えられるのです。当時の前漢から後漢にかけては人口が半減する人口崩壊が起こっていました。多くの戸籍に登録された農民などが他国に避難したため、戸籍上の人口が半減したのです。当然、朝鮮半島や九州北部にできた倭人の国々にも影響が大きく、漢は多くの北方を含む辺境の周辺国にも金印を授与して敵対しないようにしていました。「漢倭奴国王」の金印もそのなかの一つであったと考えられるのです。
3世紀頃の九州北部の変化
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さまざまな国が乱立していた九州北部にいくつもできた倭族の国は、もともとの縄文人を取り込んで、稲作により富の蓄積が進み、有力な国が周辺の国を一つに統合していきます。卑弥呼が女王になる前にすでに邪馬台国は一つの大きな国になっていました。しかし、卑弥呼が擁立される前には、男王がたっていましたが、それぞれの国が互いに争って、国として一つにまとまることができなかったのです。
その背景には、中国の後漢で再び始まった戦乱がありました。すなわち、小説の三国志や、漫画、ゲームでも題材になっているように、中国の三国時代初期は黄巾の乱やその後の諸侯の争いなどによって、混乱が生じていたのです。再び農民の難民化による人口崩壊が起こっていました。最終的には魏、蜀、呉の三国の対立時代に入り、それぞれが周辺国の取り込みをおこなっていたのです。邪馬台国の卑弥呼に対する「親魏倭王」の金印の授与や倭王の称号にはそのような事情があったと考えられています。
当時の九州南部などでは、呉の影響を受けた遺品なども多く見つかっており、魏と呉が九州の諸国に対して自国の友好国になるように争っていたのかもしれません。あるいは、邪馬台国内で国同士の争いが始まった原因は魏と呉の代理戦争であったのかもしれませんね。