弥生時代日本の歴史

5分でわかる「親魏倭王」卑弥呼に下された金印は何だった?わかりやすく解説

「漢倭奴国王」の金印は見つかったが「親魏倭王」の金印は不明

「漢倭奴国王」の金印は、江戸時代に九州福岡市の志賀島で見つかっています。本物かどうか疑う説もありますが、現代のように古代史ブームの時代ならともかく、江戸時代に偽の金印を作る意味はあまり見えないため、やはり本物と考えたほうがよいでしょう。

しかし、卑弥呼に下されたと言われる「親魏倭王」の金印は今も見つかっていません。もし、見つかれば邪馬台国の否定地論争にも終止符が打てるのでしょうが。

「親魏倭王」の金印が授与された魏志倭人伝の邪馬台国はどこにあったのか

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邪馬台国がどこにあったのかについてはすでに述べたようにさまざまに説が生まれています。その原因は、魏史倭人伝の記述に原因があり、どこかで記述の誤謬があったためと言えました。その誤謬をどこにとるかで、九州北部にも近畿にも場所は特定できるのです。

でも、古代史ファンにとっては最大のロマンであり、休日を利用して散策をして空想を巡らせることになっていますね。

倭国は邪馬台国だったのか

ただ、あまり論議がされていませんが、本当に「倭国=邪馬台国」だったのかはもう少し検証してみる必要があるように思います。倭国が邪馬台国だとすると、近畿説は成り立ち難いのです。

すなわち、卑弥呼のいた邪馬台国が倭国だとした場合、この時代にすでに近畿に倭国という倭族の国の本拠地があったことになります。

しかし、2世紀当時の奈良盆地の人口は、弥生遺跡の状況から見て1万人程度と見られているのです。わずか1万人程度の国が倭国の都であったとは考えにくいといえます。しかも、この当時にようやく初期前方後円墳ができはじめた頃でした。大和=邪馬台国は中国での漢字の読み方からみても成立しないのです。

その意味で私見的には近畿説はあり得ないと思っています。

「親魏倭王」の倭国とはどのような国だったのか

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では、「親魏倭王」の称号を与えられた卑弥呼の倭国、あるいは邪馬台国とはどのような国だったのでしょう。

魏志倭人伝によると海洋民族と稲作民族がいた

魏志倭人伝によると倭国には、最初鯨面(げいめん)をした海人族がいることが描かれています。鯨面というのは、顔に入れ墨をした人のことであり、この当時の海洋民族は倭族に限らず海でサメなどに襲われないように顔に入れ墨をしていたようです。

また、北九州に上陸してからは水稲の稲作をする農民が描かれています。すなわち、倭国では水稲の稲作がおこなわれており、その稲を倉に収めていたことがわかり、弥生時代の富が稲作によってもたらされたことを示しているのです。

日本列島では稲作でも陸稲は古くからおこなわれていた

昔の教科書には、日本列島では紀元前3〜4世紀よりも前の弥生時代以前は縄文時代が栄え、狩猟民族であったことが記載されていました。しかし、最近の研究では、北九州の水稲の稲作による弥生時代はすでに紀元前10世紀には始まっていたことが遺跡の発掘によって明らかになり、教科書でも変更されています。

そして、さらに驚くべきことに4千5百年以前からすでに陸稲の稲作がおこなわれていたことが判明しており、定住生活に近い形も発見されているのです。

最初の世界的な寒冷化の波はすでに4,500年前に起こっており、この時期に大陸から陸稲の稲作がもたらされたことを示しています。この寒冷化は、世界中で起こっており、この時期に世界の4大文明も起こっているのです。

日本列島の縄文文化は初期には青森などの東北が中心でしたが、この寒冷化によって西日本に中心が移動している形跡が見られます。その頃に陸稲の稲作は伝わりましたが、収穫量が少なく、それによって富を蓄えることはできませんでした。そのため、縄文人の人口は次第に減少していき、弥生時代が始まる頃には日本列島全体で10万人程度まで減っていたといわれています。

そして水稲稲作の伝わった弥生時代末の3世紀の頃には人口は60万人程度まで増加していました。

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