「親魏倭王」がいた倭国の中心の邪馬台国は金印と卑弥呼の墓が鍵
魏から「親魏倭王」と認められた卑弥呼の時代にはすでに国の統合がおこなわれていましたが、倭国としての邪馬台国のエリアがどこまで広がっていたのかは不明で大きな問題です。すでに、水稲の稲作文明は西日本全体から関東まで広がっていましたが、それがすべて倭国の範囲というわけではありません。
弥生時代には、教科書にも記載されているように、銅矛文化圏と銅鐸文化圏に別れており、銅矛文化圏は九州に限られています。さらに出雲の荒神谷(こうじんたに)遺跡から他の地域で見つかっている数を上回る銅剣が発見されており、近くでは多数の銅鐸も見つかっているのです。すなわち、出雲には大きな国があった痕跡が残されています。したがって、邪馬台国のエリアが文化圏の違う秋津洲(あきつしま)である本州まで広がっていたとは考えにくいといえるのです。
邪馬台国がどこにあったかは金印や卑弥呼の墓が見つからないとわからない
いずれにしても、邪馬台国自体は、「親魏倭王」の金印か、卑弥呼の墓が見つかるまでは正確な場所は確定できないでしょう。魏志倭人伝には卑弥呼の墓は径百歩ほどの円墳であったことが記載されていますが、九州でも近畿でもそのような大きな円墳は見つかっていません。
奈良の巻向にある箸墓が卑弥呼の墓ではないかという仮説が近畿説を唱える学者などで話題になっています。しかし、箸墓の近くの巻向には、古代祭祀建物跡が見つかっていますが、奈良盆地自体の人口は少なすぎ、広大な都にふさわしい住居跡も見つかっていません。したがって、邪馬台国とは別の文化圏の王国であった可能性が高いのです。
また、九州に別の王国があったことは、ヤマトタケルノミコト、神功皇后の時代に大和朝廷による九州征伐が記載されていることでもわかります。さらに歴史時代直前の6世紀前半には北九州で磐井の反乱が起こっていることでも明らかです。教科書にも朝鮮半島における任那日本府の記事が出ているのは、倭族が朝鮮半島南部に存在していたことを示していると言えるでしょう。
「親魏倭王」の金印を授与された邪馬台国は今後も古代ロマン
三国志魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の女王には、魏の皇帝から「親魏倭王」の金印を授与され、その地位を保証されたことが記載されています。ただ、後漢の皇帝であった光武帝から授与された「漢倭奴国王」の金印のように実物が発見されておらず、そのために邪馬台国そのものが実際にどこにあったかわからないのです。倭国と邪馬台国の関係もわからないまま、今後も古代ロマンとして金印も卑弥呼も謎の存在になっていくでしょう。