- 1.尊王開国を唱えた象山の生い立ち
- 1-1幕末の明星の誕生
- 1-2母を母と呼べない幼少期
- 2.学者への道を歩む
- 2-1佐久間家を継ぐ
- 2-2江戸遊学で朱子学を学ぶ
- 2-3松代藩へ戻る
- 2-4教育の大切さを訴え再び江戸へ
- 3.老中となった藩主幸貫を支える
- 3-1私塾を開く
- 3-2幸貫幕府の老中へ
- 3-3江川より西洋砲術と兵学を学ぶ
- 3-4「海防八策」を提案す
- 3-5再び西洋学を志す
- 4.失脚の要因ペリー来航と暗殺
- 4-1ペリーもビックリ象山の容姿
- 4-2象山は門弟に密航させた?
- 4-3象山の復活
- 4-4京に上る象山
- 4-5京での暮らしぶり
- 4-6象山暗殺される
- 幕末志士たちに大きな影響を与えた象山に会うことは時代の先端に触れること!
この記事の目次
1.尊王開国を唱えた象山の生い立ち
佐久間象山(さくましょうざん又はぞうざん)は、信濃国松代8代藩主真田幸貫(さなだゆきつら)に秀でた能力を認められ、若い頃から支援を得て遊学で幅広い知識を身に付けました。朱子学や蘭学を学び、更に西洋の砲術や兵学の知識も習得します。江戸で塾を開き、名だたる幕末志士たちへと伝承したのです。晩年は、開国論や公武合体論を説き活躍を試みますが、志を遂げることなく尊攘派に暗殺されました。それでは、象山の生い立ちを見てみましょう。
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1-1幕末の明星の誕生
常に人々の一歩先を行く天才思想家「佐久間象山」。15石で五両五人扶持の下級武士佐久間一学とまんの長男として、松代城下浦町(現:長野県長野市)で文化8(1811)年2月28日に誕生します。幼名啓之助(けいのすけ)。通称は修理(しゅり)で、象山(しょうざん)は雅号です。諱は国忠(くにただ)、啓(ひらき)。父は領主真田幸専(ゆきたか)の命で佐久間家に養子に入った人ですが、儒学の要素が深く、卜伝流の剣術にも秀でた文武両道の達人として期待されていたとか。
幼名の啓之助は、父の愛読詩経の中に「東に啓明あり(金星のこと)」という一節から取ったものです。「天の明星のように、この世を照らし輝かせろ」との意味が込められています。幼いころから記憶力が良く「啓之助は天才だ」と評判が立っていたようです。神童とされたことが、孤高狷介・傲岸不遜の性格に繋がったとか。
6歳から父に漢文の素読を受け、16歳から約8年に及び藩の首席家老で正統な教育政治家鎌原桐山(かんばらとうざん)に経書を、町田源左衛門に和算を学んでいます。鎌原は、学者としても名高く、四書五経を徹底して学んだようです。
ちょっと雑学
ガキ大将の象山に、泣かされた者は負けじと、「やーい、ててっぽう(松代の方言で「みみずく」のこと)」といって囃子立てたとか。正面から耳がはっきりと見えず、ミミズクのようだったからです。象山は「ててっぽうではない!明星だ!」と言い返していたとか。
1-2母を母と呼べない幼少期
小さな頃から父に、母を「まん」と呼べと育てられます。幼いながら、母上と呼びたいのを堪えていました。母の実家は足軽で、藩の掟により正式な妻とは認知されなかったのです。
「松代に佐久間啓之助有。」との天才ぶりが藩主幸貫の耳に入り、嫡子と認められた後の15歳で謁見します。雑談の後で褒美に願いを申せといわれ、「母を名前で呼び捨てにするのでなく、母と呼べるよう特別の計らいを」と頼んだのです。
後日幸貫は、まんを城に上らせよと使いを出し謁見します。藩主と会見した「まん」の位置は一挙に上り、象山は堂々と母上と呼べるようになりました。でも、「大切な母を呼び捨てにした罪は、大人になっても償えない。」と心の傷になったようです。
ちょっと雑学
松代藩主真田家の祖は、真田幸村(信繁)の兄で関ヶ原の戦いで徳川軍につき生き延びた信行です。元和8年に13万石で入城しています。信長の時代に松代を治めたのは、森蘭丸の兄森長可(もりながよし)で、信長の死後に上杉景勝が城主となるなど城主が変わっています。
2.学者への道を歩む
父から家督を譲られた象山は、幸貫から天才と認知されており、世子の真田幸良の近習・教育係に抜擢されます。父を看取った後に、将来を期待する幸貫から、藩のお金で江戸への遊学を許されました。
2-1佐久間家を継ぐ
文政11(1828)年10月13日に健康を理由に父が隠居し、18歳の象山が家督を継ぎ、藩から木村縫殿右衛門組を任ぜられます。屋敷内にあった剣術の道場も継ぎました。学問だけでなく、剣術も嗜んでおり僧の活文より琴も学んでいます。
20歳になった象山は、天保2(1831)年3月に世子真田幸良の近習・教育係に抜擢されるも、父の容体が芳しくなく5月に辞任しました。青年時代は向学心旺盛でしたが、長者に威圧的な態度を取ることが多かったようです。
家老と父の門弟の名簿を提出した際の序列で口論となり、自分の意志を曲げられない象山は、幸貫の逆鱗に触れ1832年4月11日に閉門に処せられます。父の病が重くなり、8月17日に罰を解かれますが、5日後に父一学は亡くなりました。