ドイツナチスドイツ

ヒトラーに妥協しすぎて失敗した「宥和政策」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

1930年代、ヨーロッパは世界恐慌の影響で経済的に苦しんでいました。特に、敗戦国であるドイツは最も困難な局面を迎えます。この状況を利用してドイツの政権を獲得したのがヒトラーでした。イギリス首相のネヴィル・チェンバレンはヒトラーを共産主義国家ソ連に対する盾として利用しようと考え、ドイツに対して妥協的な宥和政策を実行します。しかし、宥和政策はヒトラーによって踏みにじられ、第二次世界大戦に突入してしまいました。今回はネヴィル・チェンバレンが行った宥和政策の背景や内容、破綻について元予備校講師がわかりやすく解説します。

宥和政策の背景

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1930年代、イギリスでは保守党のネヴィル・チェンバレンが首相に就任します。ネヴィル・チェンバレンをはじめ、イギリスの保守勢力は共産主義国家ソ連を強く警戒しました。そのため、ドイツで勢力を伸ばしていたヒトラーの勢力を弱めるよりも、ヒトラー率いるナチス・ドイツの勢力拡大を容認し、ソ連に対抗させたほうが良いと考えます。

ネヴィル・チェンバレン内閣の成立

アーサー・ネヴィル・チェンバレンは、1869年にイングランドのバーミンガムで生まれました。父は外務大臣在任中にロカルノ条約に署名。兄はノーベル平和賞の受賞者でした。現在のバーミンガム大学にあたる学校を卒業後、監査法人に勤務。父親の所有する農園の経営も手伝いました。

1911年、ネヴィルはバーミンガムの市議会議員に当選。その4年後の1915年にバーミンガム市長となりました。1918年からは保守党所属の下院議員として活動。保守党内閣で保健大臣や財務大臣を歴任します。

1937年、ボールドウィン内閣の後継として内閣を組閣しました。首相となったチェンバレンは労働者の待遇改善などに努めます。同時に、女性や子供の労働時間に制限を設けるなども行いました。

保守政権の反共意識

1935年、ネヴィル・チェンバレンの前に成立していたボールドウィン保守党内閣は、ナチス=ドイツや日本の中国侵略に対し、強いメッセージを出さず、どちらかといえば静観・黙認する姿勢を示しました。ネヴィル・チェンバレンもボールドウィンの姿勢を引き継ぎます。

保守党の内閣は、なぜ、ドイツや日本の動きに対して消極的な対応に終始したのでしょうか。それは、保守党内閣にとって、ヒトラーや日本よりも共産主義国家ソ連の方が警戒するべき対象だったからです。

ソ連のような共産主義革命がイギリスで起きるのではないかという強い恐れが保守勢力の中にありました。ヒトラーにせよ、日本にせよ、反共という点では協力できる。むしろ、ソ連の拡大を阻止するためにはヒトラーや日本を利用するべきではないかと考えていたからでしょう。

ヒトラー政権の成立

1929年、世界恐慌がアメリカで起きると、その影響はヨーロッパにも波及しました。世界恐慌は経済力の弱いドイツに大きなダメージを与えます。恐慌で苦しむドイツ国民の前に、ヴェルサイユ体制打破を訴えるヒトラーが現れました。

ヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)は1932年の総選挙に勝利。議会で第一党となります。ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に任命しました。1934年、ヒンデンブルクの死後、ヒトラーは大統領も兼任。総統となります。

1934年から1938年にかけて、ヒトラーは公共事業を軸とする景気対策を行い、ドイツの雇用を劇的に回復させました。ヒトラーの景気対策は高速道路の建設や軍備の拡張で、これによりドイツは経済力と軍事力の両方を手に入れます。

ヒトラーによるラインラント進駐

政権を握ると、ヒトラーはヴェルサイユ体制を打破するため軍事力の強化に乗り出します。ヒトラーはジュネーヴで行われた軍縮会議で、ドイツも他国と同様に軍備を整える権利があるとして徴兵制を復活再軍備を強行しました。

外交面では、1933年に国際連盟を脱退。1935年の再軍備後は、ドイツの軍備を制限するヴェルサイユ条約や国境の現状維持と不可侵を約束したロカルノ条約をあからさまに無視。非武装地帯と定められたドイツ西部のライン川流域(ラインラント)に軍を進駐させます。

ラインラント進駐は明確なヴェルサイユ体制・ロカルノ条約違反となるので、イギリスやフランスの反撃が予想されました。しかし、両国はヒトラーの動きを止めません。ラインラント進駐の成功は、ヒトラーの威信を高めます

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