百年戦争後のヴァロワ王家
フランソワ1世はヴァロワ家出身の王です。ヴァロワ王家は百年戦争の直前に王位に就いた家柄で、フランス王室になるとすぐに戦争に巻き込まれました。シャルル7世はジャンヌ・ダルクの力もあって百年戦争に勝利します。その後、シャルル8世、ルイ12世はイタリアでの権益拡大を狙ってイタリア戦争を起こしました。
百年戦争に勝利したシャルル7世
シャルル7世がフランス王になったころ、フランス貴族のうちブルゴーニュ派はイギリスと手を組みシャルル7世の実権を奪っていました。苦境にあったシャルル7世を救ったのがジャンヌ・ダルクです。
シャルル7世はジャンヌ・ダルクと対面する時、わざと家臣の中に紛れて様子をうかがい、王座には替え玉を座らせていました。ジャンヌは替え玉に気づき、家臣の中にいたシャルル7世を探し出してひざまずきます。これにより、ジャンヌの「神の声を聴いた」という声を信じることにしたシャルル7世はジャンヌに軍を与えました。
ジャンヌはイギリス軍に連勝。シャルル7世はランスの大聖堂で正式にフランス王として戴冠します。
ジャンヌがパリ攻略に失敗し捕らえられ処刑された後、シャルル7世はブルゴーニュ派の貴族たちと和平をすすめ結束を固めました。その上で、イギリス軍を追い詰め、フランスから追い出します。こうして、シャルル7世は百年戦争に勝利しました。
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イタリア戦争を始めたシャルル8世
シャルル8世はルイ11世の子で、シャルル7世の孫です。シャルル8世はロワール川を見下ろす高台にあるアンボワーズ城で生まれました。今回の主人公であるフランソワ1世もアンボワーズ城で過ごしたことがあり、ブロワ城などと並んでフランス王家に愛された城ですね。
1491年、シャルル8世はブルターニュ公の娘であるアンヌと結婚。ブルターニュ公領を王家の領土に編入しました。ブルターニュ公国は大西洋に突き出たブルターニュ半島全体を領有する公爵家で、ブルターニュの王領編入は王家の力を高めることに役立ちます。
さらなる領土拡大を狙ったシャルル8世は南イタリアのナポリ王国の王位継承権を主張してイタリアに攻め込みました。広い意味でのイタリア戦争の始まりです。シャルル8世は、一時、ナポリの占領に成功しました。
しかし、教皇アレクサンドル6世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン、スペイン王フェルナンド5世、ヴェネツィア、フィレンツェなどの反フランス同盟結成を受けて急遽帰国。イタリア遠征は失敗に終わりました。
イタリア戦争を再開したルイ12世
シャルル8世は王妃のアンヌとの間に3男1女をもうけていましたが、いずれも幼くして亡くなっていたため、シャルル8世の死によってヴァロワ家の本家は断絶しました。王位継承を定めるサリカ法に基づき、ヴァロワ=オルレアン家のルイ12世がフランス王に即位します。
フランス王となったルイ12世はナポリ王国だけではなく、北イタリアのミラノ公国の継承権も主張しました。軍を率いたルイ12世は南イタリアに侵攻します。これに怒ったのがナポリ王家と血がつながっていたアラゴン王フェルナンド2世。フェルナンド2世はアラゴン軍をナポリに派遣し、武力でルイ12世を追い出しました。
ローマ教皇ユリウス2世は、フランス王を排除するためイングランド、スペイン、神聖ローマ皇帝、ヴェネツィアとの間で神聖同盟を結成。フランス軍をイタリアから追い出しました。
フランソワ1世の生涯
ルイ12世に王位を継ぐべき男子がいなかったので、傍系のアングレーム伯フランソワが王位を継承、フランソワ1世となりました。フランソワ1世はライバルであるカール5世や隣国イングランドのヘンリ8世、オスマン帝国のスレイマン1世など一筋縄ではいかない諸王と渡り合うことになります。フランソワ1世時代は、カルティエのカナダ探検やフランス・ルネサンスの開花などヴァロワ朝がもっとも華やかだった時代ともなりました。
フランス王となったフランソワ1世
1515年1月1日、ルイ12世が死去しました。ルイ12世には後継者となるべき男子がいなかったため、血筋がもっとも近いアングレーム伯爵のフランソワが国王になりました。
フランソワはルイ12世の娘であるクロードと結婚していたため、王位を継ぐに十分な資格がありました。とはいえ、ヴァロワ家の直系ではなく傍系であったことは間違いありません。
国王となったフランソワ1世は、人文主義者たちから教育を受けました。ルネサンスで一流の知識人でもあるダヴィンチやフィオレンティーノらを庇護したフランソワ1世はルネサンス風の宮殿を建てるなど、すっかりルネサンスにはまってしまいます。これが、のちにフランス・ルネサンスが花開くもととなりました。
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