フランソワ1世にとって生涯のライバルとなったハプスブルク家のカール5世
フランス王フランソワ1世にとって障害のライバルとなったのはハプスブルク家のカール5世です。ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝に代々選ばれた名門中の名門でした。カール5世は父方の祖父であるマクシミリアン1世から神聖ローマ帝国の皇帝位を、母方の祖父母であるカトリック両王からスペイン王位を受け継ぐ資格を持ちます。
フランスからすれば、東の神聖ローマ帝国と南のスペインが同じ国王に支配されているわけで、いつ挟み撃ちにされるかわからない状態となりました。フランソワ1世としては、なんとしてもカール5世の力を弱め、フランスの力を増やす必要があったのです。
ドイツ方面とスペイン方面から挟み撃ちに直面したフランソワ1世はイタリアを制することでカール5世からの圧力を弱めようと画策しました。
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油断ならない隣人、イギリス王ヘンリ8世
カール5世と対抗する上で、無視できない国がイングランドでした。フランソワ1世と同じころ、イングランドの王位についていたのがヘンリ8世です。16世紀前半にイングランド王として君臨していたヘンリ8世はテューダー朝の第2代国王。絶対王政を強化します。
1527年、ヘンリ8世は王妃キャサリンとの離婚をローマ教皇に認めてもらおうと考えました。ところが、ローマ教皇は離婚を認めません。そのため、ヘンリ8世はローマ教会と対立。新たに国王を頂点とするイギリス国教会を樹立してしまいました。
ヘンリ8世はキャサリンと離婚後、アン=ブーリンと結婚。アン=ブーリンの子が女子だったため、離婚。その後も、結婚と離婚を繰り返しました。
ハプスブルク家の包囲網に苦しんでいたフランソワ1世はヘンリ8世との関係改善を図り、カレー近郊で豪華な競演や騎馬試合を催します。これを金襴の陣といいますよ。
フランソワ1世が捕虜となったパヴィアの戦い
1519年、神聖ローマ帝国の皇帝選挙がありました。皇帝マクシミリアン1世の死によるものです。選挙の結果はカール5世の勝利。ハプスブルク家とヴァロワ家の関係はさらに冷え込みました。
1521年、フランソワ1世は三度目となるイタリア戦争を開始します。ローマ教皇、カール5世、ヘンリ8世は反フランス同盟を結成。イタリア半島とフランス北東部で両軍が激しくぶつかりました。
周囲を囲まれ、戦略的に不利な立場だったフランソワ1世は、自ら軍を指揮して北イタリアのミラノに親征。ロンバルディア地方のパヴィアでフランス軍とハプスブルク軍が激突しました。
皇帝軍は主力の傭兵部隊ランツクネヒトやスイス人傭兵を中心とします。彼らは小銃とパイクを効果的に組み合わせ、フランス軍を圧迫。その結果、フランス軍は連携を崩され総崩れとなりました。
それだけではなく、フランソワ1世自身も皇帝軍の捕虜となってしまいました。フランソワ1世は翌年に解放されます。
カルティエによるカナダ探検
1534年、フランソワ1世の命令を受けたジャック・カルティエは北米大陸の探査に出発しました。フランソワ1世の目的は、新植民地の獲得とアジアへの新航路を開くことです。
3度にわたり現在のカナダ北東部を探検したカルティエは、セント・ローレンス川流域を探査。のちのフランス領カナダ(ヌーヴェル・フランス)獲得のきっかけを作りました。しかし、新航路の開拓には失敗します。
カルティエのカナダ探査直後、フランス人たちはカナダにさほど関心を示しませんでした。しかし、カナダで良質の毛皮が産出されるとわかると状況は一変。
16世紀後半には交易会社がつくられ、フランスによる植民地化が進みます。カナダやケベック、モントリオールなどの名はカルティエの探検に由来しますよ。
オスマン帝国のスルタン、スレイマン1世と結んだ友好関係
周囲をハプスブルク家によって包囲されたフランソワ1世にとって、カール5世の敵ならば友好関係を結ぶ価値は十分にありました。たとえ、それがキリスト教徒ではなく、イスラム教徒であったとしてもです。敵の敵は味方というわけですね。
カール5世にとって主な敵は次の二つ。一つ目は、神聖ローマ帝国内のルター派諸侯。ルター派はカトリックであるカール5世にとっては戦わざるを得ない敵でした。二つ目は、オスマン帝国のスルタン、スレイマン1世です。
スレイマン1世はバルカン半島で領土を拡大。ハプスブルク家の都であるウィーンに迫りつつありました。フランソワ1世はスレイマン1世と連携し、カール5世に圧力をかけます。スレイマン1世はフランス人たちにカピチュレーションという交易特権を与えました。
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