室町時代戦国時代日本の歴史

関東の覇者「北条氏政」とは?なぜ最後まで秀吉に抵抗した?わかりやすく解説

戦国時代、豊臣秀吉の天下取りの歴史をたどっていると、必ずと言っていいほど登場するのが「小田原攻め」の一幕。本能寺の変の後、織田信長の天下取りを引き継いだ豊臣秀吉が、天下統一のため最後の最後に攻めたのが、北条氏が守る小田原城でした。秀吉の天下取りの際、北条氏の当主は北条氏直という人でしたが、実際にはその父親にあたる北条氏政が一族を取り仕切っていて、秀吉に従うか否かも氏政の考え一つであったと考えられています。他の戦国武将たちが次々と秀吉のもとに参じてひれ伏した16世紀末、北条氏政はなぜ、秀吉に従わなかったのでしょうか。今回はそんな北条氏政の生涯を詳しく解説いたします。

相模国の戦国武将:北条氏政とは?

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北条氏政は後北条氏(ごほうじょうし)と呼ばれる大名の血筋。一介の御家人からのし上がった北条早雲の血を引く戦国武将です。小田原城を本拠地に、早雲の息子の北条氏綱から、北条氏康、北条氏政、北条氏直と、父親から息子へ5代に渡って受け継がれた北条氏は、戦国時代末期をどのように迎えたのでしょうか。4代当主北条氏政の生涯を追いかけながら、秀吉による小田原攻めまでの流れを追いかけてみましょう。

生まれも育ちも相模国・後北条氏の後継者

北条氏政(ほうじょううじまさ)は1538年(天文7年)、3代当主北条氏康の次男としてこの世に誕生します。

北条氏が治めていた相模国(さがみのくに)とは、現在の神奈川県にあたる地域。北条の居城であった小田原城は現在の小田原市、相模湾を望む小高い丘陵地にありました。

小田原城は自然の地形を活かした難攻不落の城。もともとは地元の豪族の居城がありましたが、北条早雲がこれらを蹴散らし、大きな城に造り変えていったと伝わっています。

兄・新九郎が16歳でこの世を去ったため、氏政は若いころから後継ぎとして期待されていました。

相模といえば、北に甲斐(武田氏)、西に駿河(今川氏)が幅を利かせており、京都から遠く離れているとはいえ、なかなかの激戦区。氏政の父・北条氏康の時代に、甲斐と駿河と相模の三国で同盟を組み、争いを避けようと試みました。この一環で、氏政は武田信玄の娘を正室に迎えています。

北条氏第4代当主として戦国時代を生き抜く

1559年(永禄2年)、父・氏康が隠居を宣言。引退したとはいえ、まだまだ氏康の発言力は絶大なものでしたが、とにかく氏政は家督を譲られ、4代当主として、父と二人三脚で北条氏を盛り立てていきます。

時は戦国時代。

氏政が家督を継いで間もないころ、周辺諸国の均衡が崩れ始めます。越後国の上杉謙信が関東に侵攻、小田原城を包囲したのです。

このころはまだ、父・氏康が健在で、一族のトップに君臨していました。氏政は父の指示のもと小田原城に籠城し、見事、上杉謙信の軍を追い払うことに成功します。

家督を継いで間もないころは父・氏康の補佐のような役割だった氏政ですが、一時は上杉に奪われた関東の領地を取り返すなど、父を上回る活躍を見せるようになるのです。

しかし、時がたつにつれ、武田・今川・北条の三国同盟が揺らぎ始めます。1568年(永禄11年)、ついに武田信玄が駿河に駿河に攻め込むという事態になり、同盟は破綻。信玄が相模にも攻め込んできたため、氏政は苦渋の決断を迫られます。そして、長年武田と敵対関係にある上杉と手を組み、武田に対抗するという策に出るのです。

武田との離別は、武田から嫁いできた妻・黄梅院との別れという悲しい結果につながってしまいました。氏政と黄梅院との夫婦仲はとても良かったそうなので、氏政にとってこの決断は断腸の思いだったと考えられます。

ただ、北条氏政と上杉謙信との間の同盟は、あまりうまくいっていませんでした。相模国を守るため、「敵の敵は味方」という理論で上杉と手を組んだのに、上杉は満足な援軍を出そうとしません。

そこで氏政は、またまた策を講じます。どうしても上杉に勝ちたい武田と、再び同盟を結んだのです。

氏政は思い切った選択をしながら、里見や佐竹といった関東勢力との抗争に挑み、勢力を拡大していきます。

心配なのは上杉謙信の動き。上杉軍はたびたび関東に侵攻してきますが、運よくそれほどの勢いありませんでした。その後も、上杉、武田、および関東の諸勢力と心理戦を繰り返しながら、北条氏政は相模国を大きくしていったのです。

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