衰退するオスマン帝国
かつて、ヨーロッパ諸国を震え上がらせ、世界に名をとどろかせたオスマン帝国は滅亡の淵に立たされていました。オスマン帝国は周辺諸国に対抗するため近代化を図りますが、うまくいきません。オスマン帝国滅亡の直前、日本に立ち寄った軍艦エルトゥールル号の悲劇は日本とトルコのきずなを強めました。その後、オスマン帝国では青年トルコ革命が勃発。そのまま、第一次世界大戦になだれ込んでいきました。
こちらの記事もおすすめ
欧亜にまたがる大帝国となったオスマン帝国 – Rinto~凛と~
ギリシア独立戦争とエジプト=トルコ戦争
1453年にビザンツ帝国がオスマン帝国によって滅ぼされて以来、ギリシアはオスマン帝国の支配下にありました。19世紀はじめ、フランス革命などに刺激されたギリシア人たちはオスマン帝国からの独立を目指し、独立戦争を起こします。
1821年に始まったギリシア独立戦争は、西欧諸国が独立軍を支援したこともあり、1829年にギリシアの勝利と独立で幕を下ろしました。
1831年、ナポレオン戦争の混乱でエジプトの太守に収まっていたムハンマド・アリーがオスマン帝国からの独立とシリアの支配権をもとめたため、エジプト=トルコ戦争が始まります。二度にわたる戦争は、ムハンマド・アリーの優位に進みました。
1840年、ムハンマド・アリーはシリアの支配権を放棄する代わりに、エジプト総督の地位の世襲化に成功。事実上、オスマン帝国から独立しました。
こちらの記事もおすすめ
世界を大きく変えたフランスのビッグウェーブ!フランス革命について解説 – Rinto~凛と~
強まるロシアの圧力
19世紀後半、列強の一国であるロシア帝国は不凍港を求めて領土を南に拡張する政策をとっていました。いわゆる南下政策です。ロシアが目を付けたのは衰退していたオスマン帝国でした。
1853年、ロシア皇帝ニコライ1世は、オスマン帝国に対し宣戦布告。クリミア戦争が始まりました。ロシアとオスマン帝国では国力に差があり、このまま放置すればロシアの勝利は確定的です。
ロシアが南下を成功させると、イギリス本国とインドを結ぶ「インドルート」の安全が脅かされると判断したイギリスは、フランスと共にオスマン帝国に味方しました。
ロシア軍とオスマン帝国、イギリス、フランスの連合軍はクリミア半島のセヴァストボリ要塞をめぐって激しく戦います。戦いの中でナイチンゲールが活躍したのも有名なエピソードですね。戦いはロシアの敗北に終わりました。
しかし、ロシアは南下をあきらめず、1878年に露土戦争をしかけます。ロシアは戦争に圧勝。南下を果たしたかに思えました。しかし、ヨーロッパ列強の圧力によりロシアは後退します。それでも、オスマン帝国にとっては領土が縮小したことに変わりありませんでした。
こちらの記事もおすすめ
19世紀中ごろにヨーロッパ全体を巻き込んだ大戦争、クリミア戦争についてわかりやすく解説 – Rinto~凛と~
オスマン帝国近代化の試み
強まる外圧から国を守るため、オスマン帝国では国を近代化する改革が進められました。19世紀半ばにすすめられた改革はタンジマートといいます。ロシアの南下政策の標的とされたオスマン帝国を近代化させることが目的でした。
タンジマートの目標はヨーロッパを手本とした中央集権国家の確立です。法律の整備や教育賞の設置、銀行の設立、官営工場の設置などが実行されました。同じころに日本で行われた明治維新の内容によく似ていますね。
伝統的なイスラム国家から、西欧式の近代国家に変えるためには必要な改革でしたが、保守派を中心に強い反発が起きました。近代化に必要な財源を税負担に求め、ヨーロッパ系企業が利益を得てしまうなど、国民的な改革には程遠く、民衆はタンジマートを支持しません。
1876年、アブデュル・ハミト2世の下で大宰相となったミドハト・パシャが近代的なミドハト憲法をつくります。ミドハト憲法はアジア最初の憲法でしたが、露土戦争の勃発を理由に停止されてしまいました。
南紀で起きたエルトゥールル号の悲劇
19世紀の末、オスマン帝国は日本に対し親善使節団を派遣しました。使節団派遣の目的は平和条約の締結促進と皇族のトルコ訪問に対する返礼です。指揮官はエミン・オスマン海軍少将で、旗艦となったのがフリゲート艦のエルトゥールル号でした。
1889年、イスタンブルを出港したエルトゥールル号は翌1890年に日本に到着。オスマン少将は明治天皇に謁見し、皇帝アブデュル・ハミト2世の贈り物や親書を手渡します。
1890年、オスマン少将の艦隊は東京を出港。オスマン帝国への帰路につきました。同年9月16日、台風による猛烈な波濤にあい、和歌山県沖の紀州灘でエルトゥールル号が座礁。串本町大島の樫野崎に打ち上げられます。
座礁した時、エンジンに海水が流入したことなどが原因でエルトゥールル号は爆沈。587名が殉職しました。大島の島民は生存者の救助に努め、69名を救出。日本各地から遭難者に対する義援金が贈られました。その後、生存者は日本海軍の軍艦で帰国します。