青年トルコ革命
20世紀初め、オスマン帝国の衰弱は一層進み、帝国の衰退はとどまるところを知らない状態となりました。オスマン帝国の青年将校たちは、硬直したスルタンの政治によって改革が進んでいないと考えるようになります。また、日露戦争で日本が勝利したことも、青年将校たちを刺激しました。
1908年、オスマン帝国の青年将校であるエンヴェル=パシャはサロニカで挙兵。ミドハト憲法の復活とスルタン、アブデュル・ハミト2世の退位を要求しました。翌年、スルタンは退位。エンヴェル=パシャら青年トルコが政権を握りました(青年トルコ革命)。
青年トルコ政権はロシアと対立するドイツ・オーストリアと急接近。両国と連携を深め、第一次世界大戦ではドイツ・オーストリアの同盟国として参戦します。
ムスタファ・ケマルの生涯
帝国の衰退に歯止めがかからない中、オスマン帝国の軍人として頭角を現したのがムスタファ・ケマルでした。元ギリシア領のテサロニケで生まれたムスタファ・ケマルは、第一次世界大戦の激戦であるガリポリの戦いでイギリスなど連合軍の侵入を阻止します。第一次世界大戦敗北後、ムスタファ・ケマルは連合軍に対する降伏を受け入れず抵抗。オスマン帝国の混乱に乗じて侵入してきたギリシアとの戦いに勝利し、オスマン帝国を滅ぼしました。その後、ムスタファ・ケマルはトルコ共和国初代大統領となります。
若き日のムスタファ・ケマル
1881年、ムスタファ・ケマルは現在ギリシアの領土となっているテサロニケで生まれました。両親は息子を「選ばし者」を意味するムスタファと命名します。のちに、「完全な」を意味するケマルという別名が付けられました。そのため、ムスタファ・ケマルとよばれます。
ムスタファ・ケマルは1899年に陸軍士官学校に入学。1902年には陸軍大学へと進みました。1905年に陸軍大学を卒業したのち、ダマスクスに駐留する第5軍に配属されます。1908年にはルメリア東部地区鉄道監察官、1909年にサロニカ予備師団参謀長と昇進を続けました。
1911年の伊土戦争ではトリポリタニアでイタリア軍に対しゲリラ戦を展開。また、第一次バルカン戦争にも参戦しました。軍人としてキャリアを積み重ねたムスタファ・ケマルでしたが、第一次世界大戦が彼の命運を大きく変えることとなります。
第一次世界大戦への参戦
オスマン帝国の実権を握った青年トルコの政権は、ドイツ・オーストリアとともに同盟国の一員として第一次世界大戦に参戦します。ムスタファ・ケマルは重要拠点のガリポリ半島防衛軍の一員として参加しました。
ガリポリの戦いは、イギリスなどの連合軍がオスマン帝国首都のイスタンブルを攻略するため、首都周辺のガリポリ半島制圧を目指したことから発生した戦いでした。オスマン帝国の戦闘能力を軽視した連合軍は短期決戦をもくろみます。
ムスタファ・ケマルは上陸してきた連合軍の進撃を阻止。アナファルタラル地区では逆に連合軍に対し反撃し、大きな戦果を上げます。イスタンブルのメディアはムスタファ・ケマルを「アナファルタラルの英雄」と呼び称賛しました。
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トルコ大国民会議の招集
ムスタファ・ケマルはその後も西アジア方面でイギリスやイギリスに支援されたアラブ軍と戦い続けました。しかし、戦争全体としては連合国の優位は覆しようがなく、1918年、第一次世界大戦は連合国の勝利で幕を下ろします。
敗戦後、オスマン帝国に押し付けられたセーヴル条約は非常に厳しい内容でした。領土の大幅縮小や治外法権の維持、ダータネルス=ボフフォラス海峡の国際管理など屈辱的な内容だったからです。
セーヴル条約に対する強い抵抗運動が起きると、ムスタファ・ケマルは抵抗運動の指導者となりました。1920年、ムスタファ・ケマルは内陸部のアンカラでトルコ大国民会議を開催。国民軍最高司令官となってオスマン帝国の打倒を目指すようになります。
国の存亡をかけたギリシア=トルコ戦争
1919年5月、歴史的な敵国となっていたギリシアが小アジア西岸のイズミル地方(スミルナ地方)の併合を目指し侵攻を開始します。ギリシアにとって、イズミル地方は古代のイオニア地方であり、ギリシアの領土だという意識が強かったからでした。
ギリシア軍はイギリスを味方につけ、イズミル地方の完全併合を図ります。そこに立ちふさがったのがムスタファ・ケマルでした。ムスタファ・ケマルは勢いに乗り内陸部まで進行してきたギリシア軍を撃破。さらに追撃してイズミルを奪還します。
1922年、ギリシア軍を完全に国境の外に追い払ったムスタファ・ケマルはイスタンブルに進軍。スルタン制度を廃止しました。同年、ムスタファ・ケマルは連合国と新たにローザンヌ条約を締結し、失われた領土のうち小アジア(アナトリア)の領土を奪還。現在のトルコ共和国の領域を確保しました。