光州事件の背景
光州事件がおきる20年ほど前、韓国では軍事クーデタがおき朴正熙が政権を握りました。朴正煕は経済発展を最優先する開発独裁を展開し、漢江の奇跡とよばれる韓国の高度経済成長を達成します。しかし、軍の力を背景とした朴正熙の政治は強圧的で、反対者は徹底的に弾圧。時に、非人道的と批判されるほど苛烈に取り締まりました。朴正煕に対する反発は強まり、1979年に暗殺されます。
朴正熙政権の成立
1950年から始まった朝鮮戦争は1953年まで続きました。3年余にわたる戦争で、朝鮮半島全土は焦土と化します。韓国大統領の李承晩はアメリカの支援を受けつつ、経済復興を目指しました。
しかし、韓国内では李承晩派と反李承晩派の争いが激化し、経済復興は遅々として進みません。1960年、学生運動から始まった四月革命によって李承晩政権は倒されました。
国内の政事不安定や学生による北朝鮮との統一運動の高まりに危機感を抱いた朴正熙少将は、1961年5月16日に軍事クーデタを実行。朴正煕率いるクーデタ派は首都ソウルを制圧し、革命委員会の設置を宣言しました。朴正煕はのちに大統領となる朴槿恵の父ですね。
革命委員会は3日後に国家再建再興会議と改称され、反対勢力の弾圧を始めます。韓国のクーデタに対し、アメリカのケネディ政権は静観を決め込みました。1963年、朴正煕は正式に大統領に就任。以後、16年にわたる朴正熙政権が始まります。
朴政権による開発独裁と漢江の奇跡
朴正熙は、韓国の経済復興を何よりも優先するべきだと考えました。そのためには、復興の財源が必要です。そこで、朴正煕が目を付けたのが日本でした。1965年、朴正煕は日本と日韓基本条約を締結。日本との連携を強め、日本から資金を調達することに成功します。
1970年代、朴正煕は日本から得た資金やベトナム戦争でアメリカを支持することで得た資金などをつかい、韓国経済を飛躍的に成長させようとしました。
1973年、朴正煕は重化学工業化開政策宣言を発表し、鉄鋼・化学・電子工業・造船など重点開発部門を定めて、資金援助や金融面での優遇措置を与えます。
これにより、浦項総合製鉄所や蔚山石油化学コンビナートなどが拡充され、自動車産業などを中心とした工業化を達成。1977年には、建国以来、初めて国際収支が黒字となります。韓国の高度経済成長は首都ソウルを流れる川の名をとって漢江の奇跡とよばれました。
朴大統領の暗殺
漢江の奇跡で韓国経済がレベルアップすると、韓国内では中間所得者層が成長しました。中間所得者層は経済的自由だけではなく、政治的な自由も要求するようになります。しかし、朴正煕は強大な大統領権限を使って市民の政治的自由への要求を押さえつけました。
例えば、1973年には野党指導者である金大中が東京に滞在していたとき、韓国情報部は金大中を拉致する事件を起こしています(金大中事件)。
1976年のアメリカ大統領選挙で、民主党のカーターが勝利。翌年にカーター政権が発足しました。カーターは人権重視のスタンスを取ります。そのため、アメリカや軍の力を使い、権力維持のために人権を抑圧していた朴正熙は苦しい立場になりました。
1979年10月26日、朴正煕大統領は韓国中央情報部部長の金載圭によって殺害されます(朴正熙暗殺事件)。事件の背景には政権内部の権力争いがありました。長期にわたった朴正煕政権が突然終わりを迎えたことで、韓国内では動揺が走ります。
「ソウルの春」
朴正熙の突然の死は、韓国内に大きな影響を与えました。空席となった大統領には、首相の崔圭夏が就任します。崔圭夏大統領は、それまで政治活動を禁じられていた金大中らの自由を回復させました。
朴正熙によって排除されていた大学教授や学生らの大学復帰も行われます。学生たちは民主化を進めようと各地で討論やデモを実行しました。学生たちの運動は日増しに高まります。
同じころ、労働者たちも各地で労働争議を起こしていました。労働運動が多発した理由は、朴正煕の死によって弾圧される危険性が低下したことと、進行していたインフレにより生活が苦しくなっていたからです。
朴正熙の急死から次の軍事政権である全斗煥政権が成立するまでの民主化ムードが高まった時期をのちに「ソウルの春」とよびました。
光州事件の経緯
韓国内が「ソウルの春」に沸き立っていたころ、韓国全土の大学では学生運動が盛んになっていました。韓国南東部の全羅道にある光州市でも学生運動が盛んにおこなわれます。1979年12月におきた粛軍クーデタで軍の実権を握った全斗煥らは軍の動きに反対する光州市民と学生に対し軍事力を行使して弾圧。軍事政権の基盤を固めました。
事件がおきた全羅道光州市とは
朝鮮半島は、全部で8つ道によって構成されています(朝鮮八道)。そのうち、朝鮮半島南東部を占めるのが全羅道です。全羅道は北と南に分けられますが、全羅南道の中心都市が光州市でした。
日本の植民地だった1914年、首都の京城(ソウル)との間に鉄道路線が引かれたことで近代産業が育ちました。朴正煕時代の1967年、光州市は工業特区に指定され、自動車産業などが発達します。
全羅道出身の政治家としてもっとも有名なのが、のちに大統領となる金大中です。金大中は朴正熙の独裁政治に反対したため、政治活動を禁じられました。
光州は古くから文化や芸術の中心都市として知られます。高名な学者や画家、詩人などを数多く輩出してきました。また、伝統的な教育都市でもあり、現在、11の大学が存在します。教育重視の街の風土が、学生運動が広がりやすい背景にあったのかもしれませんね。