イギリスヨーロッパの歴史

清教徒革命を招いた「チャールズ1世」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

17世紀のはじめ、エリザベス1世が死去すると、隣国スコットランドのステュアート家がイングランドの王家となります。しかし、ステュアート家の国王達は絶対王政を強行して議会と対立。中でもチャールズ1世は議会派のリーダーであるクロムウェルと激しく戦います。戦いに敗れたチャールズ1世は捕虜となり処刑されました。今回は、絶対王政を貫き清教徒革命を招いたチャールズ1世について、元予備校講師がわかりやすく開設します。

ステュアート朝の成立

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16世紀後半、グレートブリテン島南部のイングランド王国はテューダー朝のエリザベス1世の絶対王政のもと繁栄します。一方、北部のスコットランド王国はステュアート家によって治められていました。エリザベス1世が亡くなると、遺言によりスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王を兼ねます。ジェームズ1世は王権神授説を奉じ、エリザベス1世以上の絶対王政を展開したため、議会と対立を深めました。

スコットランドの王家だったステュアート家

11世紀後半、フランスに住んでいたブリトン人の貴族がイングランド王ヘンリー1世に従ってグレートブリテン島に渡りました。これが、ステュアート家の先祖だと考えられています。

その後、ステュアート家の先祖はスコットランド王に仕え、王の執事(スチュワード)となりました。これが、ステュアート家の家名の始まりですね。

1371年、スコットランド王家の血筋が耐えると、王家と血のつながりを持っていたステュアート家のロバート2世がスコットランド王として即位。ステュアート朝が始まります。

ロバート2世の即位以来、230年にわたってステュアート朝はスコットランドの王家として君臨しました。ステュアート朝は諸外国と同盟してしばしばイングランドと戦います。それでも、イングランド王家との結婚により、ステュアート朝の君主はイングランンド王位継承権を持っていました

テューダー朝の断絶とジェームズ1世の即位

1558年、テューダー朝を相続しイングランド王となったエリザベス1は、父ヘンリー8世がつくったイギリス国教会の基盤を固め、スペインの無敵艦隊に勝利するなど、テューダー朝の最盛期を作りあげました。

エリザベス1世は生涯独身を貫きます。そのため、テューダー朝の後継者はいませんでした。エリザベスは後継者を明確に指名してなかったため、女王の体調が悪化すると、ロバート・セシルを中心に次の国王選びが始まります。

何人かの候補の中で、ロバート・セシルらが選んだのはスコットランド国王ジェームズ6でした。ロバート・セシルらは直ちに使者をスコットランドに送り、イングランド王として即位するよう、ジェームズ6世に要請。ジェームズ6世は要請を受け入れ、イングランド王ジェームズ1となりました。

チャールズ1世の父、ジェームズ1世

ジェームズ1世に始まるイングランドの王朝をステュアート朝といいます。ジェームズ1世はイングランド王・スコットランド王・アイルランド王を兼ねました。一人の君主がいくつかの国の王を兼ねることを同君連合といいます。

3カ国(ウェールズも加えると4カ国)の王となったジェームズ1世は、3つの国の政府や議会を統合し、自分がその頂点に君臨しようと考えました。

ジェームズ1世が絶対王政を行うにあたって信じた考え方を王権神授説といいます。王権神授説とは、国王の権力は神によって与えられたものであり、国王は神に対してのみ責任を負う。したがって、議会も国王に従うべきだと考えました。

ところが、イングランドの議会はジェントリと呼ばれる地主たちの力が強く、エリザベス1世時代も、無批判に服従していたわけではありません。ジェームズ1世の増税案などに対して、議会は否決してしまいました。

チャールズ1世の国家統治

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ジェームズ1世がなくなると、子のチャールズが即位しチャールズ1世となります。チャールズ1世は王権神授説を報じ、議会が国王に提出した権利の請願を無視。ジェームズ1世以上に絶対王政を推進します。チャールズ1世の強権的な政治に反旗を翻したのは、長老派新教徒(プレスビテリアン)が多いスコットランドでした。

権利の請願の無視

チャールズ1世が在位していた17世紀前半、ドイツでは30年戦争が起きていました。チャールズ1世は新教徒を支援。カトリックであるハプスブルク家の神聖ローマ皇帝を支援するスペインと戦おうと考えました。

チャールズ1世はスペインと戦うための戦費を得るため議会を招集します。チャールズ1世の絶対王政に反発を強めていた議会は権利の請願を採択しました。

イギリスでは、マグナ=カルタ以来、国王といえども議会が定めたほうであるコモン=ローに従うべきだとする考え方があります。イギリス議会は、権利の請願として、国王といえども議会の同意なしにあたらな課税ができないことや理由を示さず個人を逮捕できないことなどを決議しました。

権利の請願を知ったチャールズ1世は激しく怒り、権利の請願の中心人物を逮捕。ロンドン塔に幽閉しました。

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