イギリスヨーロッパの歴史

清教徒革命を招いた「チャールズ1世」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

議会の指導者クロムウェルと鉄騎隊

ところで、議会の中心人物であるクロムウェルとはどのような人物だったのでしょうか。クロムウェルは1599年にイングランド東部のハンディントンで生まれました。ジェントリ階級の出身で、ケンブリッジ大学を卒業。生涯、ピューリタンでした。

1628年に現在のイギリス下院にあたる庶民院の議員に当選します。議員となったクロムウェルは議会派に参加。中でも共和政を主張する独立派の指導者として頭角を現します。

1642年、国王軍と議会軍は戦闘状態に突入。イングランドは内戦状態となりました(清教徒革命)。はじめ、装備や編成に優れた国王軍が議会軍を圧倒します。クロムウェルはジェントリやヨーマン(独立自営農民)を主力とする鉄騎隊を編成。国王軍と互角の戦いを演じます。

ネースビーの戦い

クロムウェルは鉄騎隊を運用する中で、国王軍に勝利する新たな軍を構想します。それが、新型軍(ニューモデルアーミー)。1645年に編成された議会軍の最精鋭部隊です。新型軍は合計22,000人。身分や階層を無視して、効率的な人材配置をおこないます。

1645年6月、イングランド中部にあるネースビーで、国王軍とニューモデルアーミーを主力とする議会軍が激突しました。国王軍はクロムウェル率いるニューモデルアーミーを過小評価。正面から力押しで攻め込みます。

クロムウェルは鉄騎隊を率いてチャールズ1世の本隊に突撃を敢行。国王直属の親衛隊が後退したスキを突いて国王軍主力を潰走させます。その結果、国王軍は再起不能のダメージを負い、議会派の勝利が確実なものとなりました。

チャールズ1世の処刑

ネースビーの戦いに敗れたチャールズ1世は1646年に本拠地のオックスフォードを放棄。イングランドに侵攻していたスコットランド軍に投降しました。スコットランド軍はチャールズ1世の身柄を議会軍に引き渡します。

議会軍に捕らえられたチャールズ1世はハンプトン=コートの宮殿に幽閉されました。ところが、1647年、チャールズ1世はワイト島に脱出。議会軍と戦いを続けました。1648年8月、国王派がプレストンの戦いでクロムウェルに敗北。チャールズ1世は再びクロムウェルの軍門に下りました。

執拗に抵抗を続けるチャールズ1世に対し、クロムウェルを中心とする議会派は断固たる対応が必要だと考えます。1649年1月、議会が設置した裁判所は国王を暴君として処刑する判決を下しました。1月30日、チャールズ1世の処刑が執行され、イギリスは共和政(コモンウェルス)の時代となります。

チャールズ1世死後のイギリス

image by PIXTA / 1902942

チャールズ1世が処刑された後、クロムウェルを護国卿とする共和政(コモンウェルス)が始まりました。1658年、クロムウェルがインフルエンザにかかり亡くなると、息子のリチャードが護国卿の地位を相続します。しかし、能力不足だったリチャードは軍隊を抑えられず引退。イングランド議会は王政復古を決議し、チャールズ1世の子のチャールズ2世を新国王に迎えました。チャールズ1世は戦いに敗れましたが、王朝の持続には成功したともいえますね。

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