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伊達政宗はなぜ「独眼竜」?戦国武将たちの異名の由来を解き明かす!

歴史上の人物、特に日本の戦国時代などは、まさに「異名」の宝庫です。それぞれの武将たちの強さを形容詞として表したものなのですが、果たしてその人物が存命当時から、そのように呼ばれていたのでしょうか?上杉謙信の「越後の龍」や武田信玄の「甲斐の虎」、伊達政宗の「独眼竜」などが典型的ですが、今回は異名の由来について解説していきたいと思います。いったい誰が付けた異名なのか?今日から使える雑学として活用してみて下さいね。

知れば知るほどおもしろい「異名」の世界

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「異名」というものは、まさか本人が自ら名乗るものではありませんし、誰かがそう名付けたはずなのです。しかも語呂が良すぎて創作めいた雰囲気も感じますよね、ではいったい誰が何の目的で付けたのでしょう?そういった由来も含めて、様々な武将たちの異名を解明していきたいと思います。

上杉謙信(1530~1578)【越後の龍】

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(unknown) – http://www.casimages.com/img.php?i=100129125457634608.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

宿敵のライバル武田信玄と川中島で幾度も戦い、関東管領にもなった越後の戦国大名上杉謙信がトップバッターです。「軍神」とも称されたその戦略・戦術はまさに神がかった強さで、あの織田信長ですら直接対決を恐れたほど。

いっぽうで義に厚く、弱きを助け強きを挫くといった義侠心を持っていたことでも知られています。また神仏に対する信仰心も並外れており、自らを毘沙門天の化身だとアピールすることで、味方に安心感を与え、敵には恐怖心を植え付けていたのですね。

確実な史料がないため「越後の龍」という異名は、いつから?誰から名付けられた?のか明らかではありません。しかし有力な説として以下のことが考えられるのです。

戦国時代が終焉を迎え、徳川の世になると「軍学」というものが流行し始めました。その中でも著名だったのが甲斐武田氏の甲州流軍学でした。中でも小畑景憲は創始者とされていて、徳川家の直臣として仕えていますね。

いっぽう徳川家康の息子たちは枝分かれして、水戸・尾張・紀伊とそれぞれに分家を興しますが、中でも紀州徳川家の始祖だった徳川頼宜は、将軍家に対して強烈なライバル心を持っていたといいます。

「将軍家が甲州流軍学を軍法とするのならば、俺は謙信公の戦略・戦術を軍学として成功させよう!」

そんなわけで紀州徳川家では、上杉重臣の子孫を自称する宇佐美定祐を軍学者として招き入れ、越後流軍学がお家の軍法として定まったのです。

この定祐が書いた軍記本が「北越軍談」になるわけですが、「自らを毘沙門天の化身だと語った」「生涯女性を近づけなかった」といった今日知られているエピソードがちりばめられていますね。上杉氏をこれでもか!と持ち上げるような内容ばかりですから、自然と神掛かった謙信像も垣間見えてきます。

また上杉氏の旗印は、有名な毘沙門天の「毘」の他に、「懸り乱れ龍」「龍」という文字も使われていました。その勇ましい旗印と掛け合わせて、江戸時代になってから「越後の龍」という異名が出来上がっていったのではないでしょうか。

越後流軍学のシンボルとも呼べる謙信の存在を神格化するために、この異名はちょうど良かったわけですね。

武田信玄(1521~1573)【甲斐の虎】

戦国の龍虎として、上杉謙信と共に並び称される武田信玄は甲斐の戦国大名でした。父を追放し、わが子を幽閉した非情な武将としても知られますが、武をもって周辺勢力を圧倒し、最強の武田王国を出現させました。

しかし「甲斐の虎」という異名に関しては、冷静沈着な信玄のイメージというより、彼の父のほうがふさわしいような気もしますね。信玄の父は信虎という名ですし、猪突猛進の猛将というイメージがあるため、どちらかというとしっくりくるのが信虎のほうではないかと。

当時から「甲斐の虎」と呼ばれて恐れられたと伝わっていますが、おそらくこれも後世の人間による後付けでしょう。

「甲斐の虎」という異名が現れてくるのは、江戸時代も中期になってからのことです。大坂の近松門左衛門が「信州川中島合戦」という浄瑠璃作品を執筆し、1721年に竹本座で初公演が行われました。武田信玄と上杉輝虎(謙信)が激突した川中島合戦を背景に、軍師山本勘助なども登場しますし、のちに信玄の後継者となる勝頼の恋のエピソードなど、いかにも庶民が喜びそうなストーリーに仕上がっています。

物語の中で「甲斐の虎」という異名が出てきますので、おそらくこれが初出ではないかと思われますね。この浄瑠璃作品は大人気作となり、のちに歌舞伎として再編集されたほどですから、「甲斐の虎」という異名が一般的に広まったものと考えられます。

現在でも歌舞伎「信州川中島合戦」は定期的に公演されていて、最近では中村橋之助さんや、片岡愛之助さんらが演じておられました。

伊達政宗(1567~1636)【独眼竜】

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土佐光貞 – 東福寺塔中霊源院, パブリック・ドメイン, リンクによる

戦国時代の終わり頃になって登場した、言わずと知れた奥州のスーパースターですね。父の不慮の死を乗り越え、周辺勢力を切り従えた実力者で、豊臣秀吉や徳川家康を相手に堂々と渡り合い、伊達家を安泰へと導きました。

彼は幼い頃に患った疱瘡で右目を失明しますが、そのハンデをものともせずに敵を畏怖させ、人々を従わせるほどのカリスマ性をも併せ持っていました。政宗の生まれるのがもう少し早ければ、日本の歴史も変わっていたかも知れませんね。

さて、片目の視力を失ったゆえに「独眼竜」と呼ばれている政宗ですが、やはり生存当時からそう呼ばれていたわけではありません。これも江戸時代後期になって、歴史家の頼山陽が漢詩で詠んだ「多賀城瓦研歌」または「山陽遺稿集」に由来します。

 

横槊英風独此公 肉生髀裏斂軍鋒 中原若未収雲雨 河北渾帰独眼龍

<現代訳>

槍を小脇に抱えた一代の英雄(政宗)がいた。そんな立派な彼も平和な時と共に軍を収め、体がなまってしまったようだ。もし中央の戦乱が治まらなかったならば、おそらく東北の地は独眼竜(政宗)の手に入っていたかも知れない。

 

政宗が遅く生まれてきたことを残念がる内容になっているのですね。ちなみに「独眼竜」とは、かつての古代中国で武勇に優れた武将だった李克用のことで、彼もまた片目が不自由でした。その故事になぞらえているわけですね。

余談ですが、大河ドラマやゲームなどに登場する政宗は右目に眼帯をしていますが、当時の肖像画や史料を見ても眼帯など一切していないことに気付くはずです。これはどういうことでしょうか?

実は政宗が眼帯を付けるようになったのは戦中戦後の頃からでした。1942年に映画上映された片岡千恵蔵主演「独眼龍政宗」が初出ですし、戦後になってからは1959年上映の中村錦之助主演「独眼竜政宗」の中でも、眼帯を付けた政宗が登場します。

眼帯姿の政宗が定着しつつあった頃、やがて決定打になったのが1987年に放映された大河ドラマ「独眼竜政宗」でした。渡辺謙さんの迫真ある演技と相まって、現在見られる政宗像が完成したといえるでしょう。

今川義元(1519~1560)【海道一の弓取り】

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落合芳幾[1] 東京都立図書館, パブリック・ドメイン, リンクによる

優れた政治手腕と経済力、そして軍事力で駿河・遠江・三河を支配下に置いた今川義元。相模の北条氏康や、甲斐の武田信玄とも同盟を結んで関係を盤石にし、戦国時代最強の大名とも呼ばれています。

桶狭間の合戦でぶざまな討ち取られ方をしたため、後世から不当な評価を得ていますが、現在の歴史研究では「優れた人物だった」と再評価されていますね。

そんな今川義元に付けられた異名が「海道一(東海一)の弓取り」というもの。「海道」は東海道を指し、現在の東海地方のことを表します。また「弓取り」とは優れた武人のことで、ここでは国持大名のことを指すわけです。いわば東海地方で最も優れた戦国大名だったということになりますね。

特にいつからそう呼ばれていたのかは不明ですが、静岡大学の小和田哲男教授は、すでに義元在世の頃からそのような呼称があったのでは?と解釈されています。

また義元の死後に駿河が武田氏に奪われた後、織田信長は武田勝頼を評して「東海一の弓取り」とも呼んでいたそうです。いわば東海道の要地である駿河を手に入れた者は、「海道一の弓取り」になる資格があるということを意味しますね。

ところでもう一人、「海道一の弓取り」と呼ばれた武将がいます。天下人となった徳川家康ですね。徳川家の歴史書とされる徳川実紀には、家康のことがこう評されているのです。

 

山縣昌景城下までせめ來たりしが。御門の明しを見て昌景は、城兵よくよく狼狽せしと見えて門とづるいとまなしと見ゆ。速に攻入むといふ。信房これを制して。德川殿は海道一とよばるゝほどの名將なれば。いかなる計策あらんも計りがたし。卒爾の事なせそとて遲々する內に。烏居元忠。渡邊守綱打ていでければ。二人恐怖して引返しけり。

引用元 「徳川実紀」巻二より

<現代訳>

山県昌景(武田氏の重臣)が浜松城下まで攻めてきたが、城門に煌々と明かりが点いているのを見ると、「どうやら城兵どもは狼狽し、門を閉じることすらできなかったようだ。」と言いました。

すると同輩の馬場信房(信春)がそれを制して、「徳川殿は、海道一の弓取りと呼ばれるほどの名将だから、これは何か罠があるのやも知れぬ。」と訝ります。

まごまごしているうちに、鳥居元忠や渡辺守綱といった徳川家臣たちが反撃してくると、二人は恐怖して引き返してしまいました。

 

これは武田氏と戦った三方ヶ原の戦いの後、家康は居城だった浜松城へ逃げ込み、追いかけてきた武田勢の様子が描写されています。

徳川実紀は江戸時代後期に書かれた歴史書ですし、とにかく徳川氏の素晴らしさばかり強調しているため、あまり信憑性がないというのが本当のところでしょう。

斎藤道三(1494~1556)【美濃のマムシ】

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不詳 – 鷲林山常在寺所蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

下克上の権化といえばこの人!戦国きっての梟雄として名を馳せ、主家の土岐氏を追放し、織田氏とも渡り合ったその実力は大河ドラマでもおなじみですよね。

現在の定説では父と共に土岐氏に仕えて西村氏を名乗り、そののち主家の長井氏を乗っ取り、守護代の斎藤氏の名跡を継いだとされています。最終的には土岐頼芸を追い出して、いわば親子で美濃の乗っ取りに成功したということになるでしょうか。

しかし息子の高政(義龍)と反目して戦い、最後は敗死してしまうという波乱の生涯をたどった人物なのですね。「美濃のマムシ」のマムシとは蛇や虫のことを指すようですが、親の体を食い破って生まれてくると信じられていたことから、次々と主家を乗っ取った姿が、まるでマムシのようだと形容されたのです。

もちろん道三在世の頃からそう呼ばれていたわけではありません。1955年に山岡荘八が執筆した小説「織田信長」の中で、信長が道三のことをそう評しているのです。

 

「織田家の安危はな、おれの人物ひとつにかかっているのだ。マムシの娘との縁談などにかかっていて堪るものか」

引用元 「織田信長 無門三略の巻」より

 

また山岡荘八の原作を基に、1985年に横山光輝が描いた漫画「織田信長」も刊行されていますよ。いずれもオンラインで手に入ります。

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