室町時代戦国時代日本の歴史

伊達政宗はなぜ「独眼竜」?戦国武将たちの異名の由来を解き明かす!

横山光輝版「織田信長」

応仁の乱から70数年経った群雄割拠の戦国乱世。ここ尾張に一人の革命児が育っていました。藁で束ねた茶筅髪に縄の帯、毛脛丸出しで荒馬を駆る吉法師の姿がそこにありました。

織田家では骨肉相食む内紛が繰り返されていて、美濃の蝮(マムシ)道三の娘濃姫を正室に迎えても、うつけ振りは改まりません。天文20年(1551)の父信秀の葬儀では香を位牌に投げつけ、信長廃嫡の動きは激化。

そんな中、家老であり信長の味方でもあった平手政秀の諌死に遭います。このまま尾張のうつけで終わるか、天下を取るか、波乱の生涯がスタートしたのでした。

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真田信繁(1567~1615)【日本一の兵】

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不明上田市立博物館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

強国に挟まれた弱小勢力ながら、徳川、北条、上杉を手玉に取る活躍をした真田昌幸。その次男として真田信繁は生まれました。父の策謀を間近にしながら薫陶を受けつつ、多くの合戦に参加。特に徳川氏に対して二度までも苦杯を舐めさせるなど真田氏の武名を高めました。

しかし関ヶ原合戦の後に紀州九度村に幽閉され、無聊を託つことになりますが、その後の大坂の陣での大活躍は誰もが知るところでしょう。大坂冬の陣では真田丸という砦で徳川方に大損害を与え、夏の陣では徳川家康の本陣めがけてまっしぐらに殺到。あの家康ですら死を覚悟したといいます。

徳川家康をして「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と言わしめた信繁活躍の記憶は、後世にまで広く伝わっているのです。

さて、この「日本一の兵」という異名は、家康がそう評したというのですが本当でしょうか?その記述が記載されているのは薩摩藩の記録集でもある「薩藩旧記雑録」にあります。

 

左衛門佐殿は、味方悉く敗走し、或は討たるるに、少しも気を屈さず、真丸に成りて駆破り駆けなびけ、縦横に当たりて、火花を散らして操み立てられける。此時、家康公の御先手敗軍して、御旗本へこぼれ懸かりける程に、御本陣もひしぎなびきて、既に危ふき事両度まで有りしと成。

真田日本一の兵、いにしえよりの物語にもこれなく由、惣別これのみ申す事に候。

引用元 「薩藩旧記雑録」より

<現代訳>

真田信繁殿は、味方がことごとく敗走し、あるいは討たれているにもかかわらず、少しも気落ちせずに敵中に駆け入って縦横無尽に火花を散らして突き進んだ。この時、家康公の先鋒が押しまくられて旗本のほうまで崩れかかった。家康公本陣も大混乱に陥り、危ういこと二度に及んだという。

信繁殿の勇猛さはまさに日本一の武士であり、古来の軍記物語も及ばないことであろう。

 

この「薩藩旧記雑録」は、江戸時代後期~明治時代初期にかけての編纂ながら、薩摩藩が過去に蓄積した記録を脚色なく記載しているため、非常に信憑性が高いとされています。また当時をリアルタイムで描写した日記や記録の類がベースになっているため、同じく江戸時代に書かれた多くの軍記物とは、史料的価値がまったく違うといえるでしょう。

大坂夏の陣の際、島津軍(薩摩藩)は戦闘に参加していませんが、おそらく当時の伝聞を基に記録化したものでしょうね。

また「日本一の兵」と評したのは家康ではなく、当時の薩摩藩主だった島津家久(忠恒)だったことも明らかになっています。

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明石則実