室町時代戦国時代日本の歴史

伊達政宗はなぜ「独眼竜」?戦国武将たちの異名の由来を解き明かす!

織田信長(1534~1582年)【第六天魔王】

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Bariston投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

最後を飾るのは、やはりこのお方を差し置いていないでしょう。戦国の風雲児こと織田信長ですね。古い習慣や伝統にとらわれず、常に一歩先を行く先見の明を持った武人として、多くのファンがいます。好きな戦国武将ランキングでもダントツの第1位は間違いないところでしょう。

しかし名君であるいっぽう、暴君という側面も持っていました。「自分に逆らう者は神仏であろうが容赦はしない。」その強硬な姿勢は多くの敵を生み、悲劇すらもたらしました。ついには自らを神として崇めさせようとしたのです。現在も安土城内に存在する総見寺は、今でこそ本尊は薬師如来ですが、信長自身が本尊いわば御神体だったといいます。

ですから、自らを神たらんとした信長の異名がありますね。「第六天魔王」がそれです。とてつもないラスボス感が漂いますし、いかにも信長にふさわしい魔王の雰囲気がプンプンしてきますね。

そもそも第六天魔王とは他化自在天とも呼ばれ、他の宗教や教義を奪い取る神様だとされています。日蓮宗の宗祖日蓮などは「仏道修行者を法華経から遠ざけようとして現れる魔である」と説いているほどですから、まさに悪魔そのもの。

しかし、なぜ信長は自らを第六天魔王になぞらえたのでしょうか?武田信玄との書状のやり取りによって自らそう名乗ったという説もありますが、そのカギは延暦寺焼き討ちにあったのだと思われます。

1570年、敵対する浅井・朝倉に味方する比叡山延暦寺を焼き討ちした事実は、当時の日本人に大きな衝撃を与えました。公家の山科言継などは「仏法破滅」と評しましたし、宮中の女官たちが記した「御湯殿上日記」でも「筆舌につくしがたいほど大変なこと。」と記されています。

神仏に頼っていた当時の人々にとって、京都を鎮護する延暦寺の滅亡は、まさにこの世の終わりかと思われるほどだったでしょう。そのため信長としては、不安に駆られた人々を安心させる必要がありました。

それが自らを神としてなぞらえること。宣教師ルイス・フロイスは書簡の中で「信長は自らを魔王であり、諸宗の敵であると称し、ドイロクテンノ・マオウ・ノブナガと名乗った。」と書いています。人々が神仏に頼らなくても、信長に頼れば、現世は幸福になれるだろうというまさに意思表示だったのではないでしょうか。

2017年2月、これまでフロイスの書簡の中でしか発見できなかったことが、愛知県豊橋市の金西寺で見つかりました。本能寺の変の翌月に書かれた開山記「當寺御開山御真筆」というものがそれで、そこには痛烈に信長を批判している内容があったのです。

 

黒鼠清盛是再来、六天魔王現形否

<現代訳>

信長は、黒ねずみこと平清盛の再来であり、第六天魔王がこの世に現れたものであろうか。

 

当時の人々が、実際に信長を第六天魔王の化身として見ていたのであり、信長もまたそのように振舞っていたという証明ではなかったでしょうか。「信長は神仏を恐れない態度であり姿勢だった。それどころか自らを神だと名乗った。」だからこそ金西寺の開祖集雲守藤が痛烈に批判したのです。

「異名」の由来は様々でおもしろい!

image by PIXTA / 8208964

「異名」とは、その人の人物像を表すのにうってつけの言葉ではないでしょうか。長々と生い立ちや経歴を説明するよりも、スパッとわかりやすく人物像をイメージできるところが良いですね。言い換えれば、まさにキャッチフレーズのようなものなのでしょう。今回はほんの一部しかご紹介できませんでしたが、また機会があれば、違う人物の異名も解説できればと思います。

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明石則実