中国の歴史

明を滅ぼした「李自成の乱」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

14世紀に朱元璋が建国した明は、200年にわたって中国を支配しました。明王朝の末期になると北虜南倭に代表される外圧や、官僚たちの党争、大規模な農民反乱などが多発します。農民反乱のリーダーとなって明を滅ぼしたのが李自成でした。しかし、李自成の王朝は一瞬にして潰えます。北から満州族の国である清が攻め込んできたからでした。今回は、明を滅ぼした李自成の乱と清による中国征服について元予備校講師がわかりやすく解説します。

衰退する明王朝

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15世紀後半以降、明王朝は外圧と内部抗争によって疲弊していました。外圧の代表が北虜・南倭です。モンゴル高原に拠点を持つオイラトやタタルは頻繁に万里の国境を越えて明の領土を荒らしました。日本人や中国人を中心とする倭寇は、沿岸部を襲撃します。また、日本を統一した豊臣秀吉は朝鮮出兵を実行。明は朝鮮に大軍を派遣し支援します。こうした外圧にさらされる中、明の国内では官僚による主導権争いが発生していました。

北から明を圧迫する「北虜」

15世紀前半、明の3代皇帝である永楽帝はモンゴルやベトナムに進軍し明の領土を大きく拡大しました。永楽帝の死後、モンゴルの力が復活。モンゴル族の一部であるオイラトエセン=ハンはたびたび明と戦いました。

1449年、土木の変で明の正統帝がエセン=ハンに敗れ捕虜となってしまいます。皇帝が捕まるという前代未聞の不祥事が起きてしまった明は、モンゴルに攻め込むよりも万里の長城を大修築することで侵略を防ぎました。

土木の変から100年後、タタルアルタン=ハンがモンゴル人をまとめます。再び力をつけたモンゴル人・タタルが、明の都である北京を包囲しました。アルタン=ハンの要求は貿易の拡大です。明はアルタン=ハンの要求を受け入れ、アルタン=ハンと和議を結びました。明は軍事費と交易費で多額の出費を強いられます。

沿岸部を襲撃する「南倭」

北虜とともに明を苦しめた外圧が「南倭」です。南倭とは、日本人を中心とした海賊のこと。倭寇は活動時期により、13~14世紀の前期倭寇、15世紀後半から16世紀の後期倭寇に分類されます。明を苦しめたのは主に後期倭寇でした。

後期倭寇は、日本人というよりも中国の福建省や広東省出身者で構成されます。中国南部沿岸の人々は、明が行う外国との貿易禁止(海禁政策)に強く反発していました。沿岸部の人々は明の官憲の取り締まりをかいくぐり、日本やポルトガル、スペインと密貿易をおこないます。

密貿易人の中には、武装する商人たちもいたため、明の官憲の取り締まりはなかなか進みません。中でも王直を首領とする倭寇は毎年のように中国沿岸部を荒らしまわりました。特に、1553年の嘉靖の大倭寇で、王直は1年以上にわたり江南を略奪します。

豊臣秀吉の朝鮮出兵に対し、援軍を派遣

16世紀後半、日本では織田信長の政権を引き継いだ豊臣秀吉が天下統一を果たしていました。1592年、豊臣秀吉は明国に攻め込み、明の支配者になるとして朝鮮国王に明へ出兵に協力するよう要求します。明に臣下の礼をとっていた朝鮮国王は当然拒否。これにより、秀吉の朝鮮出兵が始まりました。

1592年に始まった文禄の役では、日本軍は15万の大軍を編成して朝鮮に上陸。朝鮮の都である漢城を攻め落とし、現在の北朝鮮の首都である平壌まで進みました。朝鮮国王は明に援軍派遣を要請。明も大軍を派遣して朝鮮を助けました。

1596年に和平交渉が始まり、一時休戦となりましたが、交渉は決裂。再開された慶長の役でも日本軍と明・朝鮮連合軍の戦いは続きました。結局、1598年に豊臣秀吉が病死することで日本軍は撤退しましたが、出兵費用は明にとって大きな財政負担となります。

東林派と非東林派による党争

相次ぐ戦争によって国内が疲弊している明は、国内政治を立て直し、財政健全化をしなければいけませんでした。しかし、明の国内では宦官と役人が主導権をめぐって激しく争います。官僚たちは諸悪の根源は皇帝側近の宦官(去勢された男性)であるとして、宦官排除を訴えました。

東林書院を再興した官僚の顧憲成が中心となったので、反宦官派官僚のことを東林派と呼びます。一方、宦官たちや彼らと結ぶ官僚たちは非東林派と呼ばれました。

東林派は多くの知識人や民衆の支持を受け、政治改革を行おうとします。非東林派は宦官が常に皇帝のそば近くにいることを利用し、東林派を押さえつけました。中でも、魏忠賢という宦官は東林派を弾圧し、東林書院を破壊します。

魏忠賢が政変により失脚すると、東林派が復活。東林派と非東林派の党争は明の滅亡まで続きました

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