中国の歴史

明を滅ぼした「李自成の乱」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

清の台頭と李自成の乱

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明が外圧と内紛で苦しんでいるころ、現在の中国東北地方にあたる満州でヌルハチが後金を建国しました。ヌルハチは明の討伐軍をサルフの戦いで撃破し、満州の支配権を固めます。明の国内は「民変」「奴変」により大混乱に陥っていました。混乱の中から立ち上がり、明を滅亡に追いやるのが李自成です。

ヌルハチが後金を建国

中国東北地方を流れる遼河。この川より東側を遼東といいました。のちに、満州と呼ばれるようになる地域です。満州には女真族が暮らしていました。女真族は「万に満つれば敵すべからず」といわれるほど、勇猛な人々です。

女真族の愛新覚羅氏に生まれたヌルハチは、いくつかに分かれていた女真族を統一。1616年に国号を後金とします。1618年、ヌルハチは弱体化していた明に宣戦布告し撫順を占領しました。

明は撫順奪還のため10万以上の大軍を送りこみます。ヌルハチは明・朝鮮連合軍が分散していることに目を付けました。機動力に勝るヌルハチ軍は、4方向から分進合撃を目指す明・朝鮮連合軍を各個に撃破。明・朝鮮連合軍は45,000もの支障を出す大敗を喫します(サルフの戦い)。

ヌルハチの跡を継いだホンタイジは後金をと改め、虎視眈々と中国進出を狙います。ホンタイジの死後は、順治帝と摂政のドルゴンが中国進出の機会をうかがいました。

あいつぐ「民変」「奴変」

ヌルハチという新たな脅威への対応を迫られた明王朝は、戦費調達のため民衆に重税をかけます。我慢の限界を迎えた民衆は各地で反乱を起こしました。都市の下層民が起こした反乱を「民変」といいます。

「民変」が起きた理由は、明王朝が都市の商工業者に重税をかけようとしたことでした。「民変」は経済の中心だった蘇州や広州、福州などの大都市を中心に発生します。反乱は大都市にとどまらず、景徳鎮などの中小の商工業都市に及びました。

また、奴隷身分(家内奴隷)の反乱である「奴変」も各地で起きます。こちらも、経済の中心である江南地方の各地で発生しました。同じころ、小作農が起こした小作料減免要求である「抗租運動」といっしょに「抗租奴変」とよばれます。

李自成の乱

都市部で「民変」「奴変」、農村地帯で「抗租運動」が起きることで、明の社会不安は頂点に達しました。中国の歴史上、社会不安が高まると必ずといっていいほど大農民反乱が発生します。明の前王朝である元の末期には紅巾の乱が発生しました。同じように、明の末期にも大農民反乱が起きます。それが、李自成の乱でした。

李自成は延安府米脂県に生まれました。李自成はかつて西夏を建国した李元昊の血を引くと称しますが、詳細は不明です。1627年と1628年、延安府を含む陝西省は立て続けに干ばつに見舞われました。食を失った人々は反乱を起こします。李自成も反乱軍に身を投じた一人でした。

挙兵した李自成は勢力を拡大。1641年に洛陽を攻め落とします。このとき、贅沢で人々の恨みを買っていた明の皇族福王を殺害し、彼の財物の一部を民衆に分け与えました。

明の滅亡と清による中国征服

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洛陽を攻め落とした李自成は開封や西安など主要都市を攻め落とし北京に迫ります。1644年、李自成軍は北京に入城。明の最後の皇帝である崇禎帝は自ら命を絶ち、明は滅亡しました。喜んだのもつかの間、国境警備を担当していた呉三桂が異民族である清に投降。清軍が北京に迫ります。李自成は呉三桂と清の軍に敗れ、北京を脱出。その後、自殺しました。

明の滅亡

李自成率いる反乱軍が明の国内で暴れまわっていたころ、明の最強部隊は万里の長城にある山海関にいました。最強部隊である呉三桂軍は北から攻め込んでくる清の軍団と対決していたのです。

最強部隊を欠く明の国内軍は李自成軍と戦って敗北。李自成は古都西安や華北経済の重要都市である開封などを攻め落とし、北京へと迫りつつありました。明の皇帝である崇禎帝は北京の城壁に拠って抵抗しようとしましたが、誰も皇帝の命令に従いません。

李自成の軍が北京に現れると、市民や明の軍人達でさえ李自成を歓迎しました。部下達に見捨てられた崇禎帝は、息子達を脱出させた後で、皇后や娘を手にかけ、自らの命を絶ちます。ここに、明王朝は滅亡しました。

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