中国の歴史

明を滅ぼした「李自成の乱」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

李自成の40日天下と最期

北京攻略の少し前、李自成は順王を称しました。王を称するのは、皇帝の一歩手まで来たことの証です。1643年、西安を占領した李自成は六部を制定し政府の仕組みを整え始めました。1644年、李自成は北京に入城。順の皇帝として即位しようとします

皇帝即位の式典が準備される中、耳を疑う凶報が李自成のもとにもたらされました。山海関で清軍と対決していた呉三桂が清に投降。清軍とともに北京に向かいつつあるとの知らせです。事態の急変に驚いた李自成は、ただちに呉三桂・清の連合軍と戦うため出撃しました。

李自成軍は、北京を占領してからすっかり油断して緩みきってしまいます。たがが外れてしまった李自成軍に、明軍最強の呉三桂軍や清軍に勝つ力はありません。案の定、李自成軍は一戦して大敗。李自成は戦場から逃亡しました。その後、李自成は西安方面に脱出しますが、農民の自警団に討ち取られます

清軍が北京を占領

李自成の乱の少し前、清の二代皇帝ホンタイジが亡くなりました。ヌルハチの子であるドルゴンやホンタイジの子であるホーゲが皇位を争います。清の分裂を恐れた有力者達は両者をなだめ、ホンタイジの子であるフリが皇帝に即位しました。これが、順治帝です。

順治帝のもとで力を握ったのはドルゴンでした。ドルゴンは摂政王として国政を指導します。ホーゲは戦争で武功を立てましたが、ホーゲの評判が高まることを恐れたドルゴンによって謀殺されました。

1644年、李自成軍が北京を占領すると、李自成に従うのを潔しとしない呉三桂は、清のドルゴンに投降します。これは、李自成にとって大誤算でした。北京に残してきた愛人の陳円円が李自成に奪われた恨みからともいいますが、投降の理由は定かではありません。呉三桂軍に先導された清軍は北京を占領。順治帝は北京に入城しました。

明末の混乱を制した李自成は皇帝になり損ね、清王朝の時代が始まる

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農民から身を起こした李自成は、順を建国し王となりました。北京を占領し、崇禎帝を自殺に追い込んだことで、李自成の即位は秒読みとなります。ところが、呉三桂によって導かれた清軍が李自成の夢を打ち壊しました。清王朝は李自成の屍の飢えになりたったともいえるでしょう。画竜点睛を欠くとは、まさにこのことかもしれませんね。

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