中国共産党の簡単な概要
中国共産党は中華人民共和国の建国政党であり中国大陸の唯一の指導政党でインド人民党についで世界で2番目に大きい政党です。国内の略称は単に党。これだけ見ても中国共産党は非常に重要な位置にいることがわかりますね。
また、中国の憲法の第1条に「中国共産党の指導は、中国の特色ある社会主義の最も本質的な特徴である」としっかりと中国共産党が中国を支配していくということが明記されており、中国の政治は中国共産党によって動かされているのです。現在のトップは習近平。何かと世界を騒がせていますよね。
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中国共産党の歴史
中国共産党の歴史はいつ誰がトップだったということでかなり変わっていくことが特徴です。次はそんな中国共産党がどのような歴史を歩んでいったのかについて見ていきたいと思います。
一政治団体としての幕開け
中国共産党の源流ができたのは1919年。社会主義を考えたマルクスとエンゲルスについて学び、最終的には共産国家を作ろうとした「マルクス主義研究会」が中国共産党の最初といわれていました。その後、マルクス主義研究会の結成から2年後の1921年に、当時世界の共産党を束ねていたコミンテルンの主導によって、陳独秀や毛沢東らが各地の共産主義組織を合併していき中国共産党が結成。上海にて中国共産党第1次全国代表大会を開催したとされています。
ちなみに、この時集まったのはわずか57名程だったといわれていますよ。今中国共産党の党員は八千万人を超えていると言われているのを考えるとかなり小規模のスタートだったということができますね。
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第一次国共合作と蒋介石との敵対
中国共産党が成立していた当初、中国大陸では中国国民党が中華民国として成立していながら各地では軍による軍閥政治が行われており、今みたいに強大な力で中国を統一していない状態でした。そんな最中成立した中国共産党は中国国民党と手を結んだほうがいいとコミンテルンの指示によって中国共産党と中国国民党は手を結ぶことになりました。これを第一次国共合作と言います。
第一次国共合作は中国の北京軍閥を打倒するために作られた合作でしたが、これによって中国共産党のメンバーは事実上中国国民党の党員として働き出すようになっていきました。
しかし、1925年に中国国民党の孫文が亡くなると中国国民党を変わって指揮するようになった蒋介石は中国共産党の急速な勢力拡大に危機感を抱き始め、この共産党をなんとかして排除しようと画策していくようになりました。
その結果1927年に中国にて上海クーデターが勃発。その結果沢山の共産党員とデモを行った労働者が虐殺され第一次国共合作は崩壊したのでした。
中国共産党はこの攻撃を受けてなんとか防衛をあたるために各地の農村に立てこもり紅軍を結成。農村を軸にしながら国民党軍に戦っていくのでした。
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中国共産党のいざこざ
中国共産党が成立した頃は基本的にはソ連の留学生がほとんどの権力を牛耳っており、基本的にはコミンテルンの指示によって動いていました。要するに中国共産党はコミンテルンの中国支部のような活躍をしていたというわけなんですね。しかし、ソ連ではこの頃スターリンとトロツキーが政治闘争を行なっており、中国共産党はそれに巻き込まれる形で失脚の嵐が吹き荒れることになります。
しかし、コミンテルンの最大の欠点としてコミンテルンが置かれていた地域と中国の実情がかなりかけ離れていたことに気付いていないということがありました。
コミンテルンが置かれていたヨーロッパやロシアなどは基本的に労働者が共産党の中核として動いていましたが、中国はまだこの頃工場化が進んでいるとは到底思えない程度であり、中国共産党の中核は農民によるものでした。
しかし、コミンテルンはこの状況を理解することはなく、大都市の労働者による武装蜂起を中国革命の基本路線と考えており、首都の南京でのデモを軸として動けと言っていたのです。
そんな中、中国の特色を理解して農村を軸に共産革命をおこなっていこうと主張する人が現れていくようになります。その人物こそ中国共産党はおろか、中国そのもののキーパーソンとなっていく毛沢東だったのです。
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