平安時代日本の歴史

平安京に都を移した「桓武天皇」即位背景・政策など元予備校講師がわかりやすく解説

894年、桓武天皇は都を奈良の平城京から現在の京都である平安京に移しました。桓武が遷都した理由の一つに、天智天皇系と天武天皇系の2つの血筋が関係します。平安京に移った桓武天皇は蝦夷征討や平安京の整備、律令国家の立て直しなどに尽力しました。また、治世の後半には最澄を厚く信頼します。今回は桓武天皇の即位の背景と、桓武天皇時代の政策などについて元予備校講師がわかりやすく解説します。

桓武天皇即位の背景

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672年におきた壬申の乱で、天智天皇の弟である大海人皇子は天智天皇の子である大友皇子を打ち破り、天武天皇として即位しました。以来、皇位は天武天皇の子孫たちに受け継がれます。しかし、称徳天皇の死により天武系の血筋が絶えたことで天智天皇の血を引く白壁王が光仁天皇として即位。光仁天皇の子である山部親王が皇太子にたてられました。

壬申の乱

672年、絶対的な権力者である天智天皇が46歳で死去しました。かわって、天智天皇の子である大友皇子が近江大津宮で天皇として即位します。しかし、天武天皇の弟である大海人皇子は大友皇子の即位を認めず、引退先の奈良県吉野を脱出し東国に向かいました。

伊勢・美濃で兵力を集めた大海人皇子は東国の兵を動員し、近江の大友皇子を攻撃すべく軍を進めます。また、大海人皇子に味方する勢力が大和でも決起。そのため、大友皇子の軍は大海人皇子の軍だけに集中できなくなりました。

美濃から進撃した大海人皇子の軍は迎撃してきた大友皇子の軍に勝利。兵を大津宮に向けます。大友皇子軍は瀬田橋で最後の抵抗を試みますがここでも敗退。大海人皇子の勝利が確定しました。壬申の乱の後、大海人皇子は天武天皇として即位します。

天武系の天皇が皇位に就いた奈良時代

686年、天武天皇が死去し、後継者と目されていた草壁皇子が即位前の689年に死去しました。草壁皇子の子の軽皇子は7歳で皇位を継承するには早すぎます。この時代、成人した皇族が皇位に就くことが当然と考えられていたからでした。

690年、天武天皇の皇后で軽皇子の祖母にあたる鵜野讃良持統天皇として即位します。697年、軽皇子は14歳で即位。のちに、文武天皇とよばれました。文武天皇の死後も皇位は天武天皇の子孫に受け継がれます。以後、奈良時代の天皇の位は天武の血を引く天武系の天皇によって独占されました。

764年、聖武天皇の娘で一度は退位した孝謙天皇称徳天皇として再即位(重祚)します。称徳天皇は独身で子がおらず、他の天武系の皇族は粛清されるなどしていたため、称徳天皇の死後、天武系は断絶してしまいました。

天智系の天皇が光仁天皇の即位と山部親王の立太子

770年、称徳天皇が死去したことにより、天武系以外から皇位継承者を選ばなければならなくなります。この時、突如、有力候補として注目されたのが天智天皇の孫にあたる白壁王でした。

白壁王は当時としては高齢の62歳。それでも、聖武天皇の娘で持統天皇の異母妹である井上内親王を妻としていたことなどもあり皇位継承者として浮上します。この時、白壁王を推薦したのが藤原百川でした。百川は反対派を排除し、白壁王の即位にこぎつけます。

こうして770年に白壁王は即位し光仁天皇となりました。光仁天皇ははじめ、井上内親王との子である他戸親王を皇太子としてたてます。

しかし、772年に井上内親王が呪詛を図ったとして皇后の地位を追われたことに巻き込まれ、他戸親王は皇太子を廃されました。かわって皇太子となったのが高野新笠の子である山部親王、のちの桓武天皇です。

桓武朝の政策

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781年、父から譲位されて即位した桓武天皇は寺院勢力の力が強い平城京を離れ、長岡京に都を移そうとします。しかし、工事は困難を極め、長岡遷都は実現しないまま中止となりました。しかし、桓武は遷都をあきらめず、794年に平安京遷都を実現します。桓武は律令制度の立て直しと東北地方に住む蝦夷の征討にも力を入れました。桓武天皇が行った政策についてまとめます。

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