遣唐使の留学生として最澄を派遣
桓武天皇は唐の制度に習い、宮中で天皇の安寧や天皇の看病などを担当する内供奉十禅師を設置しました。797年に内供奉十禅師の一人として採用されたのが最澄です。
最澄は近江国出身の僧侶で、比叡山に一乗止観院を創建していました。桓武は最澄の才能を聞き、宮中の僧として抜擢したようです。
802年、桓武天皇は遣唐使の一員として最澄を選抜。最澄は短期留学生である還学生として唐にわたりました。入唐した最澄は中国で天台宗を学び、禅や密教、戒律など最新の仏教についても修得します。
805年に帰還した最澄は病の床にあった桓武天皇の病気平癒を祈る祈祷を実施しました。最澄は帰国後天台宗を開きます。
最澄が開いた比叡山では法華経や天台教学をはじめ、自ら学んだ禅宗や密教、戒律を学ぶことができました。いわば、最澄は仏教の専門大学を開学したといってもよいでしょう。
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藤原緒嗣と菅原真道による徳政論争
805年、桓武天皇は参議の藤原緒嗣と菅原真道に現在の政治について、どのような問題点があるかと問いました。緒嗣は「軍事と造作」によって民が疲弊していると訴えます。軍事とは度重なる蝦夷征討を、造作とは平安京の造営などの建築事業のこと。
どちらも桓武天皇が肝入りで進めてきた政策でした。この二つを中止すれば、民の生活は安定すると緒嗣は主張します。
これに対し、菅原真道は軍事と造作は桓武朝の重要事業であり、これを中止にするわけにはいかないと緒嗣の意見に反対しました。
激論が交わされた結果、桓武天皇は藤原緒嗣の意見を採用。予定されていた蝦夷征討と今後の平安京造営を中止としました。この政治論争を徳政論争といいます。この翌年、桓武天皇はこの世を去りました。
桓武天皇をまつった平安神宮
1895年、平安遷都1100年を記念した式典が京都で開かれました。この時、桓武天皇を祭神とする平安神宮が京都に創建されます。平安神宮の創建は東京遷都によって京都の人の心にぽっかりと空いた穴を埋めるものだったかもしれません。1976年、平安神宮が放火によって炎上する事件が発生。この時、平安神宮は全国各地からの寄付によって再建されました。平安遷都当時の大内裏の一部を再現した平安神宮は京都の観光名所の一つとなっています。