大鳥圭介は最初は武士ではなかった
大鳥圭介は、天保4年(1833)に播磨国赤穂郡赤松村(現・兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙石戸)の医師だった「小林直輔」の息子として生まれました。幼名は慶太郎。どうやって幕臣となったのかをおっていきましょう。
幼い時から秀才だった大鳥圭介
なぜか幕末偉人の人というのはガキ大将だったということが多いですが、大鳥圭介も同じくガキ大将だったといいますね。そういう人の方が大成するのですかね。しかし、このガキ大将が凄いエピソードが幼い時からあります。3歳の時に神社に参拝して「天下泰平」と大書してまわりの人たちがビックリしたというのです。
父親は医者で漢学者だったので、13歳の時に岡山藩にある庶民でも学問ができるという有名な「閑谷学校」で、漢学・儒学・漢方医学を5年間学びました。上郡に帰ると漢学者として生きようと志しますが、父親にさとされて、蘭方医の中島意庵の助手を2年間することになりました。ここでの生活から漢方医学より西洋医学に心ひかれて、嘉永5年(1852)5月2日、蘭学修行をするために大阪の緒方洪庵の「適塾」で、蘭学と西洋医学を学ぶ事に決めたのですよ。この頃に名前を「圭介」と変えていますね。
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適塾で人生が変わる
大阪にある適塾は幕末の偉人をたくさん排出しています。そこでの勉強は壮絶なもので大鳥圭介はその中でもまれて、いつしか偉人達と同じく医学より軍学や工学にのめりこんでいきました。生活費は書写やマッサージをして稼いでいたそうですよ。なかなかの苦学生だったんですね。
適塾ってどんなところ?
適塾は「緒方洪庵」という蘭学者がひらいた塾で、大阪の船場にあります。大阪大学の前身といわれるところなんですよ。沖縄と青森以外の全国から秀才達が集まっていたんですね。
教える者も教えられる者も討論を行い、慶應大学創立者の福沢諭吉が討論をした時に負けていた者に次は逆の立場で討論しようと言われて、福沢諭吉が説いていたそのままを言っても、それ以上の論を言われて負けたという話があるそうですよ。出身者は、その福沢諭吉をはじめ大村益次郎や橋本左内らの有名人につづいて、漫画家の手塚治虫のお爺さんもいました。
当時の蘭語(オランダ語)の唯一の辞書である「ズーフハルマ」は1冊しかなくて競って皆が写すために、夜中でも燈が消えることがなかったといいますね。そして血気はやった若者達が集まっているので、時々喧嘩などもあったようで障子や襖は壊れっぱなしだったという逸話もあります。貧乏学生が多かったので、ほとんどの塾生はフンドシ一枚で、することもないので道頓堀を散歩したり、たまにお酒を飲むくらいといわれてますよ。
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適塾を出てからの大鳥圭介
安政元年(1854)に大鳥圭介は適塾時代の仲間と一緒に新天地ともいえる江戸に行くことになりました。そこで薩摩藩の人と知合いになって、洋学好きの藩主の影響か集められた本の翻訳などの手伝いなどをしていました(その最初の給料で江ノ島に遊びに行ったとか)。
その後に橋本左内も入っていた幕府の奥医師(将軍の主治医)の「坪井信良」が開いていた「坪井塾」の塾頭となったのですよ。そこには医学だけでなく色々な西洋の本があり、しだいに軍学や工学に関心が移っていったのでした。そこで最先端の西洋式兵学や、当時は珍しかった写真術を本で学び、藩主・島津斉彬の養女で13代将軍・徳川家定に嫁ぐために公家に養女に行く「篤姫」の写真撮影を指導していたりしますよ。その頃に兵学の関係で「勝海舟」と知り合いになります。
安政4年(1857)には伊豆韮山代官で幕臣の「江川英龍」の開いた砲術研究をしている「縄武館(江川塾)」に兵学教授として招かれるほどになっていますよ。同時期に高知の漁師から難破したことによりアメリカで教育を受けて幕臣となった「中浜万次郎(ジョン万次郎)」に英語を学んでいますね。向学心がもの凄いですよね。後に箱館政府を共に打ち立てる「榎本武揚」も中浜万次郎に英語を習っていたので知合いになります。
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