日本の歴史江戸時代

家康の息子「徳川秀忠」偉大なる父の影でどんな人生を送った?わかりやすく解説

偉大な父の跡を継ぐ息子へのプレッシャーは、他人からは到底想像がつかないほど大きなものです。その父が幕府の将軍で、しかも徳川家康だったら…と思うと、ぞっとしてしまいませんか?徳川秀忠(とくがわひでただ)は、その家康の息子として生まれ、大きな期待を背負って成長し、徳川家の大黒柱として生涯を送った人物です。彼はいったいどんな人物だったのでしょうか?

まだ雌伏の時を送っていた徳川家康の息子

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By 投稿者がファイル作成 – ブレイズマン (talk) 07:35, 18 November 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, Link

徳川秀忠徳川家康の三男として生まれましたが、当時、家康は豊臣秀吉に臣従する立場でした。このため、秀忠は秀吉の下に人質として送られ、結婚も秀吉の意に沿う形となります。父も息子も、秀吉の意向に逆らうことはできない日々を送ることになりました。

徳川家康の三男として生まれる

天正7(1579)年、秀忠は徳川家康の三男として誕生しました。母は側室の西郷局(さいごうのつぼね)で、子だくさんの家康の子供たちの中で、松平忠吉(まつだいらただよし)は母を同じくする弟となります。

秀忠が生まれた時、すでに長兄の信康(のぶやす)と次兄の秀康(ひでやす)がいましたが、信康は秀忠が生まれて約5ヶ月後に切腹させられてしまいました。そして秀康は生母の身分が低かったことや家康からあまり愛されなかったこともあり、天正12(1584)年の小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いの後、豊臣秀吉のもとに養子に出されます。このため、秀忠が家康の後継者と定められることになりました。

最初の結婚はたったの1年

秀忠の少年時代は、父・家康にとっては豊臣秀吉に従う雌伏の時でした。天正18(1590)年の小田原征伐の際に、秀忠は上洛し、織田信雄(おだのぶかつ)の娘で秀吉の養女となった小姫(おひめ)と結婚します(婚約だけだったという説もあります)。つまりは人質というわけでした。秀忠は12歳、小姫は6歳。政略結婚以外の何物でもありませんでした。

しかし、小姫はこの翌年に世を去ってしまいます。一説には、実父・織田信雄が秀吉と仲違いしたために改易(かいえき/所領を没収されること)され、それに伴い小姫も離縁されたと言われていますが、詳細は不明です。

この後、父・家康は住み慣れた駿河(するが/静岡県中部)や三河(みかわ/愛知県東部)から荒れ放題の関東へと国替えを命じられ、悔しい思いを胸に秘めながら、秀吉に膝を屈し続ける日々を送ることになります。

江を妻に迎えた秀忠、真面目な恐妻家となる

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小姫と離縁した後の秀忠ですが、それから間もなく二度目の結婚となります。相手は、淀殿の妹である江(ごう)でした。江と結婚した秀忠は、元来真面目な性格だったため側室を持つことなく、江との間に次々と子供をもうけていきます。

淀殿の妹・江を正室に迎える

その後、秀忠に再びの縁談が舞い込みました。相手は江。織田信長に滅ぼされた浅井長政(あざいながまさ)の娘で、秀吉の側室・淀殿の妹です。江はすでに2回の結婚経験がありましたが、1度目は離縁、2度目は死別していました。2度目の結婚相手が秀吉の甥で養子となっていた秀勝(ひでかつ)だったこともあり、文禄4(1595)年、江は秀吉の養女という形で秀忠のもとに輿入れすることになったのです。

秀忠は江よりも6歳年下でしたが、結婚生活はそこそこうまくいっていたようで、2人の間には2男5女が生まれました。そのうちの最初の男子が、後の徳川家光です。

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