- 地租改正とは?農民の不満を軽減しようとした
- 地租改正の背景には何があったのか
- 江戸時代の農民の税金制度は大名にまかせられた
- 基本は秀吉の太閤検地が元に
- 江戸時代末期の農民の一揆
- 開国によって農民の生活は苦しくなった
- 明治政府の税制改革としての地租改正
- 農民の不満を軽減するつもりが負担増になることも
- 第二次世界大戦後まで地租による農地税制は続いた
- 戦後の農地改革によって小作農は解放された
- 高度経済成長による産業構造の高度化とともに農村人口の減少と食料自給率の低下
- 温暖化によって世界的な食料危機がくる可能性が高まる
- 地租改正は戦後の所得税制改正で改められたが、逆に今は危機が来ている
この記事の目次
地租改正とは?農民の不満を軽減しようとした
image by iStockphoto
地租改正は、1873年に明治政府がおこなった租税制度の改革でした。それまでは、大名が幕府から本領安堵といって土地の所有権を認められていました。しかし、明治時代になって、版籍奉還と廃藩置県によって大名の土地所有権と年貢(税金)の徴収権はなくなり、農民は、田畑などの土地の所有が認められたのです。それぞれの農地の価値(地価)が決められて、それに基づいて税額が固定的に決められ、税制は大きく変わりました。
この明治政府による地価改正の背景には、江戸時代末期の農民の厳しい年貢取り立てによる困窮による不満がありました。この地租改正の背景をまず見ていきましょう。
こちらの記事もおすすめ
廃藩置県とは?明治政府の重要な政策はどのようにして行われたのか – Rinto~凛と~
地租改正の背景には何があったのか
image by iStockphoto
明治新政府は、維新を正当化するために、戊辰戦争で倒した徳川幕府と違う政策を示す必要がありました。そのために、富国強兵という政策を掲げていたのです。明治維新に際して示した五ヶ条の御誓文には具体的なものは示されず、結局徳川の世と変わらないのではないか、権力争いではなかったのかという世論が沸き上がっていました。
そのため、明治新政府は、その批判に応えるためにも徳川幕府とは違う世の中を作る必要があったのです。最初は、版籍奉還、廃藩置県などがおこなわれたものの、それによって多くの武士たちが路頭に迷い、反政府運動をするようになっていきました。そのため、日本を強い国にするために富国強兵政策がとられたのです。北海道の屯田兵制度、冨岡製糸工場などの殖産政策、国立銀行の設置や新貨幣制度などの金融政策などが次々と導入されました。そして、その富国強兵政策の1つとして1873年におこなわれたのが、地租改正です。
この地租改正はなぜ必要だったのか、その背景を見てみます。
こちらの記事もおすすめ
激動の幕末ー黒船来航から戊辰戦争までの流れー – Rinto〜凛と〜
江戸時代の農民の税金制度は大名にまかせられた
徳川幕府には、征夷大将軍として農業を基本とした土地の所有権を大名に与えるという本領安堵制度がその権力の背景となっていました。平安時代の荘園を地頭だった武士層が奪ったのですが、彼らを正式にその所有者として認めることを本領安堵と言い、征夷大将軍にのみその権利が認められていたのです。その結果、大名はその土地に住む農民から年貢という形で収穫した米で税金を徴収することができたと言えます。
そのために、大名の懐具合によって各地で農民の税金には大きな差があり、大名は台所が苦しくなると農民の税金を引き上げていました。年貢の比率は五公五民、六公四民など、ほとんどの農村では半分を越えていたのです。そのため、飢饉などが起こると農民の暮らしは困窮をきわめ、一揆が頻発していました。
基本は秀吉の太閤検地が元に
江戸時代の農民は、税金である年貢を、収穫した米に対して5割~6割を要求されていました。しかも、太閤検地以降は、大名の土地は米の収穫高を基準とした石高で計られ、農村では村全体で村高が決められていたのです。そのため、飢饉などで収穫が減っても基本的に村高で年貢が決まってくるため、年貢が少なくなるわけではなかったので、農民の生活は困窮を極めました。そのために、農民は飢饉などの際には村役場に年貢率の軽減を願い出ていましたが、認められない場合には、一揆という手段に訴えることも多かったのです。
農民が支払うべき年貢が固定されていたため、一度飢饉などが起こると農民にはほとんど何も残らないこともあり、一揆につながっていました。江戸時代の税制制度は農民に大きな負担があったのです。それほど、農民の不満は高まっていました。
江戸時代末期の農民の一揆
江戸時代中期以降になると、農民たちは、米作りだけでなく、養蚕や綿花栽培で家計を補っているケースも多くなりました。教科書などにも出てくる、綿花や生糸を作って織物にするマニュファクチャという工場制手工業制度も生まれていて、彼らが買い上げてくれたため、生活が楽になったのです。
しかし、江戸時代末期になると、日米修好通商条約によって開国し、綿製品、生糸製品などが海外に持ち去られ(輸出された)、その値段が急騰して庶民の家計は苦しくなりました。本来は、綿花や生糸を作っていた農家には大きな利益が入るはずですが、中間流通業者の商家がほとんどの利益を独占していたのです。一方では、綿製品、生糸製品の国内価格は流通量が激減して値段は高騰し、それが物価全体に波及してしまいました。
そのため、農民にはほとんどその恩恵がなく、かえって物価急上昇によって、生活は困窮を極めました。そのため、徳川幕府に対して不満が高まり、農民一揆が多発するとともに、打ち壊しと言われる町民の一揆も盛んにおこなわれたのです。
こちらの記事もおすすめ
何が不平等?「日米修好通商条約」を条文から読んでみよう – Rinto~凛と~
開国によって農民の生活は苦しくなった
このように、江戸時代末期には、農民は開国した恩恵がないだけでなく、物価の上昇によって生活は困窮するようになって徳川幕府に対する不満が高まり、それが倒幕の勢いを強めたと言えたのです。
そのため、明治新政府には、それらの農民の負担を軽減する期待が高まっていました。