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明治維新の富国強兵政策の1つ「地租改正」とは?わかりやすく解説

明治政府の税制改革としての地租改正

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このような江戸時代末期の農民の不満を抑えるために、明治新政府は、土地税制の改革は不可欠だったのです。当時はまだ、国の強さは農業に依存するという考え方が強く、農民の負担を軽減することが求められていました。

そこで、明治政府は、土地税制制度そのものを改革することにしたのです。それまで農民が耕していたに土地の所有を認めるとともに、その土地の地価を固定的に決めて、売買が可能にしたのでした。そしてそれとともに、その土地に対して地租と言われる税金をお米ではなく、お金で支払う方法に変えたのです。土地の再測量もおこなわれ、それに基づいて地券と呼ばれる、今の土地の権利書に当たるものが発行されました。

農民の不満を軽減するつもりが負担増になることも

当初は、土地の生産価値に対して3%が地租率となったが、固定額であり、しかも明治政府が従来の年貢による政府収入が減らないことを目指したため、農民には厳しいものでした。そのため、冷害などの飢饉があると農民が苦しむのは江戸時代と同じであったため、反発も当初から大きかったのです。そのため、飢饉があると土地を手放す農民も多く、小作農となって、江戸時代の水呑み百姓と呼ばれたころと変わらなくなっていきました。一方で、元の村の名主などの金持ちはそれらの土地を買い上げて、地主となり、農民から搾取するのも同じ構造だったのです。

そのため、地租の税率は改正の翌年の1874年には2.5%に引き下げの改正をせざるを得なくなりました

第二次世界大戦後まで地租による農地税制は続いた

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このような農地に対する地租による税制は第二次世界大戦後まで続きました。しかし、第二次世界大戦に敗れて、連合国が入ってくると、日本の社会構造にまで手を入れて、地租による農民の負担についてもようやくメスが入れられたのです。

戦後の農地改革によって小作農は解放された

敗戦後、連合国のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が入ってくると、このような小作農化した農民を農奴と位置付け、農民に農地を解放する農地改革がおこなわれました。すなわち、農地を小作農民に戻したのです。また、土地税制も、シャープ税制と言われる所得に応じて税率が決まる累進課税中心の所得税制度が取り入れられ、地価税も地方税の固定資産税に織り込まれました。それによって農民はそれまでの苦境から救われたと思われました。

高度経済成長による産業構造の高度化とともに農村人口の減少と食料自給率の低下

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しかし、農地改革によって土地を手にいれた農民も、農地は狭く、生活は苦しかったために、都市部では離農する農民が増加しました。政府も農家に対する補助金を出していますが、同時に農地を売却する農家も増えるようになり、産業構造的にも、農民のウエートは低下を続けているのです。そのため、日本の食料自給率は低下の一途を続けており、危機感を持つ人も増えています。

しかも、最近では、TPPなどで海外の農産物に対する関税が引き下げられ、日本の食料自給率はさらに低下が見込まれまれているのです。今後、戦前のようなブロック経済化したり、戦争などがおこったりした場合には、私たちの食糧は手に入らなくなる可能性(食糧安保問題)はますます高まっていると言えます。

温暖化によって世界的な食料危機がくる可能性が高まる

世界では、先進国の温暖化ガスの大量排出によって温暖化現象が顕著になりつつあり、気候変動により、世界の穀物生産は危機に瀕しています。ブラジルなどでは、アマゾンの森林を焼いて農地にして穀物生産をしようとしているものの、それによって温暖化が逆に進む矛盾も生じているのです。温暖化によってスーパー台風などの気候変動も大きくなってしまって、それが穀物生産性を悪化させている面も見受けられるようになっています。

そのため、ますます食料危機は現実化しつつあるのです。

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