イタリアヨーロッパの歴史古代ローマ

地中海世界を支配した「古代ローマ帝国」の皇帝を一挙解説!

かつて、地中海全域を支配した超大国が存在しました。古代ローマ帝国です。ユーラシア大陸の西端に位置し、北はブリテン島、南はエジプト、東はメソポタミア、西はイベリア半島に及ぶ広大な領域を支配しました。広大なローマ帝国を支配した多くの皇帝たちについて、前半の元首政時代と後半の専制君主制時代に分けてわかりやすく解説します。

ローマ帝国前期の皇帝たち

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共和政時代の末期、ローマは内乱の一世紀とよばれる混乱時代にありました。内乱を収束させたユリウス=カエサルの死後、カエサルの養子だったオクタヴィアヌスが覇権を握り元首政をはじめます。ネロによる暴君も現れますが、ネルウァにはじまる五賢帝の時代に帝国の統治は安定。領土も最大となりました。

内乱に勝利し元首政を創始したアウグストゥス

カエサルの死後、カエサルの養子であるオクタヴィアヌスとカエサル配下の勇将アントニウスがローマの覇権をめぐって争いました。紀元前31年、オクタヴィアヌスはアクティウムの海戦でアントニウスと彼に味方したエジプト女王クレオパトラの軍を撃破し、ローマの覇権を握ります。

オクタヴィアヌスはカエサル暗殺の教訓を踏まえ、皇帝と自ら名のことは避け、元老院を尊重した政治を行いました。元老院はオクタヴィアヌスに市民の中の第一人者を意味するプリンケプスと尊厳ある者を意味するアウグストゥスの称号を贈ります。

アウグストゥスとなった彼は、治安が安定した属州の支配権を元老院に返還する一方、国境沿いの属州の支配権と軍への最高指揮権を保持しました。このため、アウグストゥスの政治はあくまで市民の中の第一人者であるプリンケプス(元首)の政治という意味で元首政と呼ばれます。

秩序の破壊者となったネロ

アウグストゥスの死後、皇帝の地位はカエサルとアウグストゥスの血をひくものが継承したため、ユリウス=クラウディウス朝といいます。ローマ帝国5代目の皇帝となったのはネロでした。

ネロの治世のはじめの5年間は善政。これは、師で補佐役のセネカの功績が大きいとされます。しかし、次第にネロの統治は狂気じみたものへと変化しました。師であるセネカもコントロール不能となり、引退。のち、自殺を強いられます。

64年、ローマ市内で大火が起きると、人々は「ネロが新しいローマの都市計画を実現するため、自ら火を放った」と噂しました。この噂を打ち消すため、ネロは当時まだ少数派だったキリスト教徒を放火犯にしたて迫害します。

また、ネロはギリシアへの強いあこがれをもちアテネで演劇や音楽に耽溺。これをみた元老院やローマ市民はネロに皇帝の資格なしとして廃位を決定しました。

1世紀後半にローマを統治したフラウィウス朝

ネロの死後に起きた混乱を沈めたのがユダヤ人との戦いで勝利した東方軍司令官ウェスパシアヌスでした。ウェスパシアヌスに始まる王朝をフラウィウス朝とよびます。

ウェスパシアヌスはネロの放漫な出費で破綻した財政を立て直し、コロッセウムなど公共施設の充実に力を注ぎました。古代ローマでは公共施設の充実は統治者の重要な仕事と考えられていたからです。

ウェスパシアヌスのあとに皇帝になったティトゥスの時代、イタリア南部のヴェスヴィオ火山が噴火し麓のポンペイが埋没。ティトゥスの次に皇帝になったドミティアヌスは元老院と対立します。ドミティアヌスは反対派を処刑する恐怖政治に走ったため暗殺され、フラウィウス朝は断絶しました。

帝国史上最大の領土を獲得したトラヤヌス

ドミティアヌスの暗殺後、元老院は穏健な長老ネルウァを皇帝に指名します。ネルウァは元老院と協調。死ぬ前にトラヤヌスを養子に迎えました。トラヤヌスは属州ヒスパニア出身の軍人です。

ネルウァの死後、トラヤヌスは皇帝に即位。国内政治では元老院議員たちの意見をくみつつ、新興の騎士階級の登用をはかるなどバランスの良い統治を実現しました。また、トラヤヌスはトラヤヌス広場の建設やアッピア海道の修築などの公共投資にも力を入れます。

軍人として優秀だったトラヤヌスは101年~102年にかけて現在のルーマニアにあたるダキアに遠征。106年には属州としてローマ帝国に編入します。

また、ローマ帝国にとって宿敵であるパルティアとの戦いにも大勝し、パルティアの都であるクテシフォンを占領しました。この時、ローマ帝国の領土はメソポタミア南部にまで達する空前の広さとなります。しかし、補給線が伸びきっていたこともありメソポタミア南部は早急に撤退。帰還する途中でトラヤヌスは死去します。

帝国を守る長城を築いたハドリアヌス

メソポタミア遠征からの期間中に病状が悪化したトラヤヌスは、ハドリアヌスを養子として次期皇帝に指名します。軍隊はトラヤヌスによるハドリアヌス指名を支持し、元老院も追認しました。

ハドリアヌスはトラヤヌスが拡大した領土のうち、メソポタミアとアルメニアの放棄を決定。前線を縮小して東部国境の安定化を図ります。ハドリアヌスはいたずらな領土拡張は行わず、天然の要害や長城の建設によって国境の安定化をはかりました

皇帝即位後、ハドリアヌスは長期にわたる国内巡回を実施。属州統治の再編成をめざしました。ハドリアヌスが築いたもっとも有名な建造物はイギリスに残る「ハドリアヌスの長城」です。ブリテン島北部のカレドニア人との国境として建設された長城は1987年に世界遺産に登録されました。

ハドリアヌスも歴代皇帝と同じくローマ市内を整備します。特に、今も残るパンテオンはコロッセウムとともに、古代ローマ文化を今に伝えていますね。

哲人皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス

ハドリアヌスの死後、皇帝の座に就いたのは穏健なアントニヌス=ピウスでした。彼の治世は23年間に及びましたが、その治世は平和裏に過ぎます。

アントニヌス=ピウスが後継者に指名したのがマルクル=アウレリウス=アントニヌス。ストア派の哲学者でもあったので、哲人皇帝とも呼ばれました。

彼の時代、ローマは外敵の侵入に苦慮します。東方では宿敵パルティアがローマとの係争地であるアルメニアに侵攻。本格的にパルティアと戦いになります。この時、ローマがパルティアとの戦いでドナウ川防衛線から戦力を移動させた隙をついて、ゲルマン系のマルコマンニ族がパンノニア(現ハンガリー)属州に侵攻しました。

マルコマンに族を中心とするゲルマン民族はローマ国境の各所に同時攻撃を仕掛け、一時はアルプスを越えて北イタリアに侵入を許してしまいました。マルクス=アウレリウス=アントニヌスはゲルマン人を国境外に押し返す戦いのさなかに前線で亡くなります。

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