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ヨーロッパの火薬庫は大変だ!汎スラブ主義とユーゴスラビアについてわかりやすく解説

今では多くの国が乱立しているバルカン半島。しかし、この半島は昔ロシアを主導としてひとつの国として統一するという動きがありました。今回はそんなバルカン半島で巻き起こった汎スラブ主義とそれによって生まれた二つの国についてみていきましょう。

そもそも汎スラブ主義とはなんなのか?

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汎スラブ主義とはロシアやバルカン半島に住んでいたスラブ系諸民族の統一をめざした思想とその思想を基盤とした運動のことです。

ヨーロッパの近代史や第一次世界大戦を学ぶ上で一番大切なことと断言できるのがバルカン半島の情勢について。いわゆる『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれていたバルカン半島はオスマン帝国が撤退してから諸民族が独立するようになり、最終的にはここの地域が起こしたとある事件によって第一次世界大戦が起こるようになりました。

まずは、そんなバルカン半島の情勢と汎スラブ主義についてみていきましょう。

ロシアの南下政策と独立運動のおこり

14世紀後半からバルカン半島という地域はオスマン帝国という強大な国によって支配されていました。オスマン帝国の力というのはこの頃のヨーロッパではかなりのものでしたが産業革命が起こると徐々に衰退が始まり露土戦争というオスマン帝国とロシア帝国との戦いに敗れるとこれを機に勢力を失い始めていきます。

これを機に勢力拡大を果たしたいのがロシア帝国。ロシアという国は北の大地にあったため海というのが冬になると凍ってしまいます。そのためロシアという国は一年中貿易することができず、これをなんとか解消するためにクリミア半島に進出したり、清の領地を割譲させてウラジオストクを開港したりするのですが、ロシアはオスマン帝国が徐々に支配力を失っているバルカン半島に漬け込めばここの地域を思い通りにすることができると考え始めたのです。

1848年革命と第一回スラヴ人会議

こうしてロシアが主導となってバルカン半島に進出していくようになりましたが、1848年に1848年革命というヨーロッパ全土で巻き起こったナポレオン1世亡き後のヨーロッパ秩序を守っていたウィーン体制が崩壊する決起となる革命が各地で起こります。

ウィーン体制の中心地であるオーストリア帝国でもこの革命の影響をもろに受けてしまい諸民族によって独立運動が発展。その中でもチェコの首都プラハにてパラツキーによる第一回スラヴ人会議が開催されました。

しかし、この第一回スラヴ人会議はチェコ国内にいたロシア人かチェック人のみでかなり小規模なものでしたが、最終的にはこれが汎スラブ主義の元となっていったのです。

汎スラブ主義と汎ゲルマン主義

こうしてスラヴ人の連帯を目指してスラヴ人の会議が開かれましたが、これに目をつけたロシアは徐々に南下を開始。影響下においていきますが、これに対抗していったのがドイツだったのです。ドイツの皇帝ヴィルヘルム2世は南下政策を行い南下していたロシアに危機感を覚え、この頃オーストリアで掲げられていたゲルマン民族が住んでいるところがドイツという大ドイツ主義を利用してバルカン半島のドイツ人の居住地域も確保しようと計画。特にオーストリア帝国はオスマン帝国の衰退に乗じて1908年にボスニア・ヘルツェゴビナを占領。いわゆるバルカン問題を深刻なものにしてドイツも3B政策の中継地としてこのバルカン半島に注目していたのでました。

もちろんロシアからしたらドイツは邪魔で仕方ない。もちろんドイツの動きに反発してさらに汎スラブ主義を強めていくことになります。このようにバルカン半島では汎スラブ主義を掲げていたロシアと汎ゲルマン主義を掲げていたドイツが衝突寸前のところまでいき、そして1914年にこの関係は爆発することになるのでした。

第一次バルカン戦争

さて、この時点でもかなり火薬庫としての異名にふさわしいほどのごちゃごちゃ具合となりましたが、汎スラブ主義はついにかつてバルカン半島を支配していたオスマン帝国にも向けられていくことになります。

この頃独立していたバルカン半島の国であるギリシャ・ブルガリア・モンテネグロ・セルビアは1912年にオスマン帝国に対抗するためにバルカン同盟を結成。ロシアの後ろ盾があったこの同盟は1912年にオスマン帝国に宣戦布告。この頃イタリアと戦争していたオスマン帝国からすれば不意をつかれた形となり首都イスタンブールから40キロのところまで攻められる事態となり最終的には停戦。この戦いによってオスマン帝国はバルカン半島の支配権を完全に失ってしまいバルカン同盟の完全勝利にて幕を閉じました。

第二次バルカン戦争と汎スラブ主義の崩壊

第一次バルカン戦争によってバルカン同盟に所属していた国はオスマン帝国から領土を獲得しましたが、領土分配をめぐる色々な問題が残ってしまい、バルカン同盟は空中分解。

最終的にはブルガリアがギリシアに宣戦布告をしたことによってバルカン同盟は正式に消滅し、ロシア帝国内の汎スラブ主義の人々は失望。汎スラブ主義は終焉を迎えることとなりました。

サラエボ事件と第一次世界大戦

第二次バルカン戦争以降、再びバルカン半島は分裂していき、状況は混迷していくようになります。その中でなんとオーストリア皇太子が軍事演習の視察のためにセルビアのサラエボにやってくるというニュースが飛び込んできました。実はこのセルビアにやってくる日がとんでもないぐらいまずいものでやってくる6月28日はセルビア人がオスマン帝国に敗れ、さらに彼達が信仰していたヴィトゥスという聖人の祝日でもあったのです。

こんな大切な日にもしかしたら征服しかねないオーストリアの次期皇位継承者がセルビアにやってくるのですから腹立たしくなるのも当然ですね。

その結果セルビア人青年がオーストリア皇太子を暗殺するサラエボ事件が発生。これに激怒したオーストリアはセルビアに侵攻を開始。汎ゲルマン主義のオーストリアがセルビアに侵攻したことはこの地域に勢力を伸ばしていたロシアからしたら耐えられるものではなく汎スラブ主義を掲げオーストリア、そしてその同盟国であるドイツに宣戦布告。汎スラブ主義と汎ゲルマン主義の対立が第一次世界大戦という世界史上初めての世界大戦という形で遂に爆発したのでした。

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