軍人皇帝時代とローマ帝国後期の皇帝たち
五賢帝時代が終わると、ローマは長期にわたる混乱時代に突入します。この時代、元老院の権威は地に堕ち、各地の軍団が勝手に皇帝を擁立する軍人皇帝時代となりました。軍人皇帝時代を収束させたディオクレティアヌスは帝国の再編をおこないます。その後、コンスタティヌスやテオドシウスはディオクレティアヌスと同じく専制的な支配でローマの統一を維持しました。
皇帝がローマ各地に現れた軍人皇帝時代
235年、ゲルマン民族との戦いのさなかに皇帝セウェルス=アレクサンデルが暗殺されると配下の軍人たちはマクシミヌスを皇帝に推挙します。地方の下層階級出身の軍人に過ぎなかったマクシミヌスの即位は万人が納得するものではありませんでした。そのため、皇帝即位後も各地で反乱が相次ぎます。
マクシミヌスの皇帝即位からディオクレティアヌスの即位までの50年間を軍人皇帝時代といいました。皇帝の位はローマの元老院ではなく、各地の軍団によって決定されます。
もともと、軍人皇帝時代の以前から元老院議員の力は低下していましたが、軍人皇帝時代の軍による発言力強化の結果、今まで以上に力を失ってしまいました。
大きくなりすぎた帝国を四分割して統治したディオクレティアヌス
軍人皇帝時代の混乱を収束させたのはディオクレティアヌスでした。ディオクレティアヌスは元老院に配慮した元首政ではなく、皇帝による専制君主政を選択し帝国の秩序を回復させました。
ディオクレティアヌスは293年にローマ帝国を4つに区分する四帝分治(テトラルキア)を創始します。とはいっても、ディオクレティアヌス以外の3人の皇帝はディオクレティアヌスの代理に過ぎず、最終決定権はディオクレティアヌスが持ちました。
また、ディオクレティアヌスは帝国再建のため宗教面でも改革を実施。自らを神として崇拝させます。これに従わなかったキリスト教徒に対しては組織的かつ徹底的に弾圧しました。ディオクレティアヌスが行った政治・経済面の改革はある程度効果があり、帝国は100年以上の延命に成功します。
キリスト教を公認したコンスタンティヌス
ディオクレティアヌスの引退後、ローマ帝国は再び分裂状態となります。特に、イタリア半島より西側では内乱が激化しました。この戦いに勝ち残ったのがコンスタンティヌスです。
コンスタンティヌスは312年にローマに入城し、元老院から西の皇帝として承認されました。313年、コンスタンティヌスはミラノ勅令を発しキリスト教を公認します。信者の数が増えたキリスト教徒を無視することも弾圧することも得策ではないと考えたコンスタンティヌスは、宗教の自由を認めキリスト教徒への迫害を終わらせました。
また、コンスタンティヌスはキリスト教の教義をめぐる争いにニケーア公会議で決着をつけ、アタナシウス派を正統とします。324年、帝国東方も支配下におさめたコンスタンティヌスは都をビザンティオンに移し、コンスタンティノープルと改名しました。コンスタンティノープルは、のちの東ローマ帝国の首都として長く繁栄します。
キリスト教を国教化し、帝国に最後の統一をもたらしたテオドシウス
コンスタンティノープルへの遷都後、ローマ帝国の中心はギリシアなどの東方へ移りました。4世紀後半、ローマ帝国の国力は衰え西ゴート族がたびたび帝国領土に侵入します。特に378年のアドリアノープルの戦いでは東の皇帝ヴァレンスが西ゴート族に大敗、戦死してしまいました。
テオドシウスは急遽、東の皇帝に選出され西ゴート族への反撃を開始。382年には西ゴート族と同盟条約を締結することに成功しました。
その後、388年に西の皇帝となっていたマクシムスを打ち破ってローマ帝国全土の支配権を握ります。また、ニケーア公会議以後も教義をめぐって争っていたキリスト教に対しては、改めてアタナシウス派を正統とすることを決め、ローマ帝国の国教と定めました。
テオドシウスが395年に死去すると、ローマ帝国は東西に分裂。以後、二度と統一されることはありませんでした。
帝国の東西分裂と西ローマ帝国の滅亡
テオドシウスの死の直前、西のローマ皇帝にはホノリウスが、東のローマ皇帝にはアルカディウスが指名されました。西のローマ帝国は476年、傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされます。一方、東のローマ帝国は1000年にわたって生き延びました。ギリシア化が進んだ東ローマ帝国はビザンツ帝国と呼ばれるようになります。
こちらの記事もおすすめ