幕末日本の歴史江戸時代

国のために徳川家へ嫁いだ「篤姫」徳川に殉じたその生涯を読み説く

3-2政も左右する大奥での生活は不安だらけ

大奥で一番重んじられたのは、将軍の正室篤姫でした。敵はそこら中におり、姑の本寿院はもちろん定家の乳母で大奥御年寄の歌橋やもう一人の御年寄滝山は、特に手ごわい相手でした。大奥では権力のある、御年寄を味方に付けなければただの飾り物。何もできないところだったのです。

一橋派の慶喜の他にもう一人、南紀派の紀伊家慶福(よしとみ)も、時期将軍へ推薦されていました。水門家出身の慶喜を、松平慶永や養父の斉彬、慶喜の父徳川斉昭と土佐藩主山内豊重が推していました。

慶福は、彦根城藩主の井伊直弼や譜代大名、家定の側近、大奥の人々からも信頼されていました。篤姫は四面楚歌だったのです。御年寄の滝山は、きっての慶福推しでした。年齢は若いも将軍家と血統が近い、慶福を時期将軍へと考える人が多かったのです。

斉彬は利発で八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を期待できる、幾島という女性を送り込んでいます。新参者で人脈のない幾島は、持ち前の頭脳と大枚をはたいて、買収作戦に出て人気を得ると直ぐに篤姫の片腕となりました。

3-3体の弱い夫、家定の死

斉彬からの密命を達成すべく篤姫は、家定に慶喜を時期将軍にと推すよう話すも、「どいつもこいつも俺が死んだ時の話ばかり」とカンカンになって怒る始末。節約家と大奥で知れ渡る慶喜は、雅な生活を送りたい大奥の女中の嫌われ者でした。篤姫は、「家柄が低いことへの中傷や、財力に物をいわせて大奥を動かす不届き者」などと陰口をたたかれたようです。

そんな時、南紀派の慶福贔屓の井伊直弼が大老になりました。万事休す!井伊大老は、家定をいいくるめ、13歳の慶福を養子にする事を承知させました。慶福は名前を「家茂」と改めています。

将軍家定が安政5年(1858)7月6日に薨去。篤姫は、夫婦らしい会話もないままに家定がこの世を去った事に後悔したようです。7月16日に、養父斉彬までこの世を去りました。幾島の力を持っても、慶喜を将軍にする事ができませんでした。篤姫は髪をおろし、名を「天璋院」と改めています。

4.将軍の母となり奔走する天璋院・篤姫

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次の将軍は残念ながら、南紀派の家茂でした。家茂はまだ13歳という若さで、義母として篤姫の力が必要でした。篤姫は夫家定を亡くした後も、しっかりと大奥を守っていく人生を送る事になります。

4-1大奥の外は荒れていた

安政7年(1860)3月3日には、井伊大老が水戸浪士に暗殺された桜田門外の変が起こりました。それを期に、時代が激しく動く事になります。若い志士たちの間では、尊王攘夷の声が高々と上がり、「天誅(てんちゅう)」とする暗殺が横行しました。

17歳になった将軍家茂と皇族を結婚させるという、「公武合体」案が出されました。そこで、公明天皇の妹「皇女和宮」が、降嫁したのです。実は、和宮も篤姫の時と同じく、使命を背負って降嫁しています。それは、攘夷決行を望む兄帝の意志を家茂に伝え、実行させるというものでした。

4-2大奥でもやっぱり起った!嫁姑バトル

皇女和宮が、天璋院篤姫のところへ挨拶に来た時のこと。篤姫は上座に座布団を敷いて座り、和宮を下座に座布団なしで座らせた話は有名ですね。他にも、御所風のまま暮らさせてほしいとの降嫁の約束もことごとく反故にしています。武家の女中たちと公家の女中たちは、事あるごとにぶつかりました。

これを終息させたのは17歳という若い夫婦の愛でした。家茂は、妻をいたわり誠心誠意愛情を注ぎました。和宮もいつしか家茂を敬い、皇女としての誇りも溶けていきました。バトルが終わったきっかけは、天璋院と家茂夫妻が一緒に出かけた時のことです。

踏み石の上に、天璋院と和宮の草履が並んでおり、家茂の草履は下にありました。それを見た、和宮は自分の草履を下に置き、家茂の草履を踏み石の上に置いたというものです。義母である天璋院と家茂を、たてて一歩引く気遣いを見せた事からできたバトル終結でした。

4-3体の弱かった家茂の死

この頃、長州藩のテロ行為が頻繁に起こっていました。幕府は長州藩討伐を決定したのです。そうこうしている内に家茂自身が、孝明天皇と会う以外に事態の終息はない状態になっていました。元々体の弱い家茂は、3度も京に出向く事になったようです。天璋院もさすがに、家茂の体を心配する日々を送ります。

長州征討の2回目には、将軍家茂自身が陣頭指揮を執りました。大阪城に入る戦況は、敗北ばかり。心身ともに疲弊しており、元々体の弱い家茂は、21歳という若さで慶応2年(1866)7月20に、この世を去りました。

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