5.江戸無血開城
一橋慶喜が将軍になるも、既に徳川家に力がない事は明らかでした。江戸無血開城へと尽力したのは、かつて天璋院の嫁入り道具を整えた西郷隆盛と勝海舟でした。
5-1江戸城の女主人となった天璋院の決意
子どものいなかった家茂の後継者は、かつて養父斉彬が懇願した一橋慶喜でした。でも、天璋院は、胡散臭いと慶喜を嫌っており大反対。勝海舟は後に、天璋院が慶喜を嫌ったのは、女性をバカにした言葉遣い、嘘、いい加減な事を平気でいう信用できない人物だと思っていたからだとか。しかし、孝明天皇の信頼が厚い、慶喜が15代将軍になりました。
慶応3年(1867)10月14日に、慶喜は朝廷に対して大政奉還を申し出ます。鳥羽伏見の戦いでの敗北が致命傷となり、江戸城の陥落は時間の問題だったのです。勝海舟は幕府と薩摩が戦う事になると、篤姫に薩摩に帰るよう促すも徳川と運命を共にする事を決めていた天璋院の心を動かすのは無理でした。
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5-2江戸無血開城されるまで
天璋院から城を枕に討ち死にする事も恐れない、薩摩女の意地を見せつけられた勝海舟は、慶喜から「江戸城を戦わずに明け渡す」との承諾を得たのです。西郷隆盛は、天璋院から命を落としても徳川のために最後まで戦うとの、嘆願書を受け取ります。それを読んだ新政府軍の参謀西郷は、このままでは死者を増やし、後世に残るのは恨みだけと平和的解決に踏み出したようです。
西郷隆盛と勝海舟が面会し、徳川家を取り潰さない事を条件に、江戸無血開城を実現させました。しかし、難儀だったのは天璋院。がんとして譲らず江戸城に居座ろうとしたのです。3日間の短い間だけだからと騙して、連れ出したとのエピソードが残っています。
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5-3無血開城後の天璋院・篤姫
静観院(和宮)は、清水邸へ、天璋院も築地にある一橋邸へと移る事になりました。大奥の女中たちは涙するも、天璋院は「めそめそする事はない。江戸城の女中だった事を誇りに持ち、新しい時代に胸を張って生きよ。」と諭したようです。天璋院は4月10日に江戸城を後にしています。260年も日本のトップとして君臨した江戸幕府は終わりを告げました。
徳川家は、当時6歳だった徳川家達(とくがわいえさと)を当主にして存続しました。天璋院は晩年、千駄ヶ谷の徳川邸で家達の養育に力を注いでいます。経済的に苦しくとも、決して島津家からの経済援助を受ける事はありませんでした。家達をイギリスに留学させるなど立派な青年へと育てています。
勝海舟とは、江戸城を後にしても関係は続き、2人して東京の町を頻繁にデートしていたとの説も。質素倹約に勤めながら気楽に自由な晩年を過ごした、天璋院篤姫の様子がうかがえますね。明治16年(1883)11月20日に49歳で他界しました。
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6.徳川幕府の最後を見届けた篤姫は、最後まで立派だった!
篤姫が亡くなった時の所持金は、3円でした。今のお金で約6万円。江戸城を出る時に持っていた2,000両は、一円も手を付けていませんでした。上野の寛永寺に家定と並ぶ篤姫のお墓の近くには、大好きだった枇杷の木が植えられています。
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