日本の歴史昭和

今さら聞けない日本と中国の大喧嘩である日中戦争について解説!

運命の盧溝橋事件

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1937年7月7日。この日、盧溝橋という橋をまたいで日本軍による演習が行われていました。しかし、とある時日本軍に向かって謎の発泡が起こり、日本軍は騒然となります。日本軍はこれを国民党軍による挑発と断定。盧溝橋を挟んで日中間で小競り合いが起こり始めました。

しかし、盧溝橋事件のこの時点では日中両方が即座に講和したため、何事もなかったのように終結。両国の争いはここで終わるはずでした。

しかし、その10日後に上海にて第二次上海事変が勃発し、日本人が多数殺害されてしまいました。この出来事によって日本は中国に主力兵士を派遣することを決定。何も対応がないまま、当時の日本の首相近衛文麿はこの事件のことを北支事変と名付け実質的に戦闘状態に突入していったのです。そのためこの日中戦争は『宣戦布告なき戦争』と呼ばれ、日本における名称も宣戦布告していないことから戦争とは言わず単なる支那事変という単なる事件として日本では報道されていました。

戦争の拡大と南京占領

こうしてなし崩しに始まった日中戦争。日本軍はこの戦争にかなり自信があった模様で、「中国は分裂しているからそこを叩けばすぐに降伏することができる」と楽観的に考えていました。

実際に日本軍は上海から上陸し盧溝橋事件から3ヶ月後の11月には当時の中国の首都である南京を占領。この南京占領の時に大量の中国軍の捕虜や南京市民を虐殺した南京虐殺事件が日本軍の指示によって起こりましたが真相は闇の中です。

しかし、日本軍の快進撃に日本中が浮かれまくっていたことは事実だったようで翌年の1938年には近衛文麿は中国との講和を打ち切ることを宣言。いわゆる「国民政府相手とせず」と声明を出して中国と全面戦争に突入していき、さらにこの時に政府が全てのものを徴収することができる国家総動員法を成立。中国を潰すために日本中で戦争体制が敷かれたのでした。しかし、中国は世界一の人口と世界第3位の国土を持つ国家。かつてイギリスの政治家ですら「イギリスが本気になっても中国の4分の1しか支配下に置くことができない」と言わしめた中国の本領がここから発揮されていくのです。

戦線の拡大と泥沼化

日本軍の快進撃が続く中、日本は中国の重要都市である武漢や徐州に侵攻。中国軍を打ち破りどんどん奥地に侵攻していきます。しかし、中国は降伏するどころか中国奥地の重要都市重慶に遷都して徹底抗戦を打ち出しました。さらに中国に同調したイギリスが蒋介石を助けようと援蒋ルートと呼ばれる当時イギリスの植民地であったビルマから大量の武器を輸出し、日本軍と張り合っていきます。一方の共産党側も本拠地である延安においてゲリラ戦を展開。戦術だけは世界レベルであった毛沢東が必死に日本軍と戦っていきました。

こうしてすぐに終わるだろうと予想していた中国との戦争は中国側の粘り強い抵抗と中国の広大な国土によって泥沼化。日本軍は重慶に爆撃を行ったり、占領した中国の土地に新しく南京政府と呼ばれる親日政権を樹立させるなどいろいろな策を講じていきますが、中国を降伏させるまでには至らず日本が避けなければならない戦線の膠着化が引き起こされてしまいました。

日中戦争から太平洋戦争へ

こうして戦線が膠着していった日本軍。日本軍はこの状況をなんとかするためにイギリスやアメリカが国民党軍に援助している援蒋ルートを断ち切る方針を取り始めます。そして行ったのがインドシナ進駐から始まる南方戦略だったのです。しかし、このインドシナ進駐によってアメリカは日本に対して対日石油輸出制裁を開始。一滴の石油も日本に売ることをやめて日本を干からびさせようとしたのでした。日本はというとただ単にアメリカと戦争したのではなく、中国との戦争を終わらそうと必死となりその結果アメリカと戦争を行うという最大級の愚策を犯してしまっのですね。まぁ、その後日本軍はアメリカが石油輸出禁止の制裁を加えたことによって、日本はアメリカとの戦争を決意。1941年12月8日に真珠湾を奇襲したことによって太平洋戦争へと突っ走っていくことになりました。

日中戦争の終わり

太平洋戦争の開戦の後、日本では中国だけではなく太平洋も主戦場になったことからこの戦争を支那事変から大東亜戦争へと名前を変え、アジアの植民地をアメリカやイギリスから解放するという大義名分の下インドネシアやフィリピンを始め東南アジアへと侵攻していきました。しかし、この侵攻の目的はアジアの植民地の解放なんてものではなくただ単にインドネシアの石油を狙ったものであり、日本に占領された後は日本によって搾取されていきます。

しかし、太平洋戦争は案の定日本のジリ貧によって徐々に押され始め1942年のミッドウエーの海戦で負けたことが転機となり圧倒的な劣勢となってしまいました。

その一方、中国戦線はというと日本軍の意地を見せて大陸打通作戦という日本軍の一大作戦を無事成功させ中国の沿岸地域を完全に占領します。が時すでに遅し。この大陸打通作戦を成功させた時にはとっくにサイパン島が陥落されてしまい、日本本土に空襲が襲います。こうしてもはや勝つ手段がなくなった日本は1945年8月15日にポツダム宣言を受諾。9月9日に南京において無条件降伏をし8年続いた日中戦争は終わりを迎えたのでした。

日中戦争の意義とは?

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日中戦争は元々関東軍による大暴走によるものが原因だったため、政府がきっちりと軍を押さえつけなければとんでもない状態となってしまうというのを証明する戦争でもありました。戦後、日本はアメリカ主導の占領下に置かれ、非軍事化が図られるようになったのですが、その後も日本と中国の関係にとっては無くてはならない出来事として両国の教訓となったのでした。

日中戦争。それは日本と中国の歴史を大きく変える転換点でもあったのでした。

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