八月十八日の政変と第一次長州征伐
こうして『何が何でも外国人をぶっ飛ばす!』という考え方となった長州藩。長州藩はいけるかと思ったのでしょうか。この攘夷の考えをそのまま実行し、下関海峡を通る外国船を砲撃。実力行使に出てしまいます。でも外国も攻撃を受けてしまったら報復を行わなければなりません。外国船を襲撃されたイギリス中心の4カ国は翌年砲撃をした砲台を占領。長州藩はボコボコにされてしまいます。
さらにそれに合わせるかのように京都において長州藩排除の動きが活発化。八月十八日の政変において長州藩は京都から追放され、さらに禁門の変では天皇がいる方面に鉄砲を撃ったことが原因でついには天皇に刃向かう逆賊となってしまいます。これには尊王攘夷を掲げ天皇を大切にしようとしていた長州藩士には大ダメージ。さらにこれを懲らしめようとして幕府軍が軍を連れて長州藩を攻撃。尊王攘夷派の藩士を捕らえることを条件に長州藩は幕府にごめんなさいして長州藩は一気に幕府の言いなりとなってしまいました。
第二次長州征伐と倒幕
こうして長州藩はあっさりと幕府側につくようになりましたが、これに対して長州藩の攘夷志士は黙って見過ごすわけにはいきません。特に高杉晋作の志は高いもので、晋作は功山寺と呼ばれる寺において挙兵。自ら作り上げた奇兵隊と共に長州藩におけるクーデターを起こし、長州藩の実権を握ったのでした。
しかし、こんな状況を見た幕府が再び長州藩に攻め込むという噂が流れます。しかし、このピンチにおいても長州藩士は焦りませんでした。この時、長州藩では坂本龍馬を仲介人として長年の敵であった薩摩藩と和睦。幕府が長州に攻めてきたら薩摩藩は動かないことと、武器を援助することを取り付けて長州藩は急速に力をつけてきます。こうして万全な準備を整えた長州藩は幕府と対決。第二次長州征伐と呼ばれるこの戦において長州藩は連戦連勝の快進撃を見せて幕府を撤退に追い込みました。こうして長州藩は幕府よりも強い力を手に入れ、その代わり一つの藩にすら負けてしまった幕府の権威は一気に地に堕ちることになるのです。
こうして幕府に勝った長州藩は逆に倒幕を実施。1868年には徳川慶喜の大政奉還を受けて王政復古の大号令を発令し、見事に倒幕を成し遂げたのでした。
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明治維新の長州藩のその後
こうして明治維新を成し遂げた長州藩。明治時代に入るとかつて攘夷志士と呼ばれていた長州藩の藩士たちは立派な政治家に成長し、明治時代を引っ張っていくことになったのです。
関ヶ原の戦いから268年後、毛利家やその家臣である藩士たちは徳川家という仇を討ち、国を動かす立場へと変貌を遂げたのでした。