借金まみれで大ピンチ
こうして萩に本拠地を置いた長州藩。しかし、幕府の思惑通りこの萩という場所があまりにも何もないため長州藩はこの地域の開発に勤しんでいく日々に明け暮れてしまいます。もちろん幕府からの援助金なんて出してもらえるわけないですから、全部長州藩の自腹です。そのため江戸時代中期ともなると藩の借金がかさんでしまい、最終的には100万両の借金を背負う羽目になってしまいました。もちろんこのままいけば長州藩は破綻してしまいます。長州藩はこの莫大な借金をどう処理していくのかに頭を悩ませいったのです。
長州藩の画期的な改革
借金に追われて大ピンチな長州藩。どうにかして借金を返さなければいけません。そんなことを考えながら1836年になると毛利重就が亡くなり、今回の主人公格である毛利敬親が第13代藩主に就任します。毛利敬親は藩主に就いてから翌年である1837年から改革を開始。村田清風という凄腕の政治家を雇い藩政改革を推し進めていくことになりました。
まず、清風は長州藩の地理的な長所に目を向けます。長州藩がある長門・周防は当時航路の要所として知られていた下関海峡の真ん前にありました。そこで村田は長州藩に越荷方という役職を設置。この役職は簡単に言うと商品の保護と貿易船を守る今で言うところの貿易会社みたいなものだと思ってくれればいいのですが、村田はこの越荷方を設置したことでお金を徴収する収入源を確保。長州藩の借金はみるみるうちになくなっていき、いつしか長州藩は日本で一二を争うほどの裕福な藩になったのでした。
そしてその裕福になったその財政を使って長州藩は日本を動かしていくことになるのです。
幕末の長州藩
こうして借金を完全に返済し、裕福となった長州藩。しかし時代は平和な江戸時代から動乱の幕末へと移り変わっていきます。
次は長州藩はどのようにして倒幕を成し遂げていったのかを長州藩の動向を見ていきましょう。
攘夷派と佐幕派で揺れ動く長州藩
毛利敬親が藩主になって15年後の1853年。突如として浦賀にペリー率いる黒船が来航。日本は幕末と呼ばれる時代に突入していきました。これを受けて長州藩は悩むことになります。当時、日本では尊王攘夷という『外国人なんてぶっとばせ!天皇を大切にしろ!』という考えが日本中で広がっていたのでしたが、その中でも長州藩の藩士がこの考えを支持していたのです。その中でも代表格といってもいいのが松下村塾の塾長だった吉田松陰。吉田松陰は尊王攘夷の中でも「外国を追い払うために外国と並ぶだけの実力を持ってそして最終的に追放しよう!」という大攘夷という考え方を支持していました。(ただ単に外国人を追い払うことを小攘夷と言います)
しかし、これに目をつけたのが当時江戸幕府の大老だった井伊直弼だったのです。井伊直弼といえば安政の大獄が有名ですが、その前に外国と日米修好通商条約をアメリカと結んでいました。そのためその条約にとって邪魔でしかない尊王攘夷派の志士をなんとかして排除しなければいけない。そう考えて行ったのが安政の大獄でした。
この安政の大獄の結果吉田松陰は処刑されることになりましたが、これがさらに長州藩の攘夷感情を高める結果となり、最終的には吉田松陰に学んだ桂小太郎や高杉晋作などを中心に小攘夷的な方向に方針を固めたのでした。
こちらの記事もおすすめ
激動の幕末ー黒船来航から戊辰戦争までの流れー – Rinto〜凛と〜