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謎めいた古代都市遺跡「モヘンジョダロ」とは?わかりやすく解説!

「もへんじょだろ、ってどういう漢字書くの?」なんてジョークがあるとかないとか、一度耳にしたら忘れられないインパクトの名前を持つ遺跡「モヘンジョダロ」。パキスタンの世界遺産になっている、世界的に有名な遺跡ですが、いつ頃、どういう人々が暮らしていたのか分かっておらず、今なお多くの謎に包まれた不思議なスポットでもあるのです。今回はそんなミステリアスな「モヘンジョダロ」を取り上げ、インダス文明の不思議について詳しく解説いたします。

インダス文明最古最大の都市遺跡:モヘンジョダロとは

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ペルーの「マチュピチュ」、南米チリ・イースター島の「モアイ像」、イギリス南部の「ストーンヘンジ」、ロシアの「ポル・バジン」……。明らかに誰かの手によって作られた精巧な人工物なのに、いつ頃、誰が何のために作ったのか分からないもの。世界にはそんな不思議な遺跡や彫像がたくさん残されています。数ある中でも、「モヘンジョダロ」のミステリアス度はかなり上位にあると言ってもよいでしょう。一体どんな遺跡なのか、「モヘンジョダロ」の基本情報を見ていきましょう。

驚愕!未開の地にひっそりと佇む4000年前の古代都市

ヒマラヤ山脈から流れ出し、インドの西側に大きな弧を描きながらインド洋に注ぐインダス川。流域には紀元前5500年頃から人の暮らしがあったと考えられており、太古の昔から多くの命を育んできた世界屈指の大河です。

この川の下流域、乾いた丘陵が続くなだらかな大地に、謎めいた遺跡「モヘンジョダロ」があります。

インダス川河口の西側に位置するパキスタン最大の都市・カラチから北へおよそ300㎞。広大な乾燥地帯の先に突然、精巧な石積みによって築かれた街が現れます。その広さはおよそ四キロ四方。その昔、ここには明らかに、高度な文明を持った人々が暮らしていたのです。

現在のモヘンジョダロは、インダス川からかなり離れた位置になりますが、当時のインダス川の流れはもっと近くにあり、川を活かした暮らしをしていたと考えられています。

遺跡としてのモヘンジョダロが発見されたのは1922年。インド人の歴史学者による発掘調査チームによってその存在が世に知らされました。

非常に貴重な遺跡であることは明らかですが、場所や気候、風土、地球温暖化、地下水の浸み出し、治安の悪さなどの影響で風化が激しく、遺跡の調査はおろか、現状の保全もままならない状況が続いているといわれています。

モヘンジョダロの全容を明らかにするためにも保全は最重要課題。1980年に「モヘンジョダロの考古遺跡」としてユネスコ世界遺産の文化遺産に登録されていますが、その後も、保全の必要性を訴える声は続いています。

名称の意味は「死の丘」~誰も近づかない禁断の領域

「モヘンジョダロ」をカタカナ表記で書くときは、「モヘンジョ・ダーロ」「モヘンジョ・ダロー」「モエンジョダロ」「モエンジョ=ダーロ」など、様々な書き方があります。

英語の綴りは「Moenjodaro」。これは現地の言葉「死の丘」という意味を持つ言葉なのだそうです。

1922年にインドの歴史学者がこの地に足を踏み入れるまで、モヘンジョダロは未知の空間でした。地元の人たちが「死者が眠る丘」と恐れて近づかない禁忌の領域。それが「モヘンジョダロ」という名称の語源となっています。

ここには、およそ紀元前2600年頃から紀元前1800年頃まで、モヘンジョダロには四万人近い人が暮らしていたと考えられているのだそうです。おそらく、自分たちの都市や町、国に名前を付けて呼んでいたに違いありません。

モヘンジョダロをはじめ、複数のインダス文明遺跡の中から象形文字のようなものが数百種類見つかっており、これらの文字を「インダス文字」と呼んでいますが、手掛かりが少なく解読には至っていないのだとか。何を書き記していたのか、解読は難航しています。

つまり、この古代都市に人が住んでいたであろう紀元前2000年頃、この都市がどのような名前で呼ばれていたか、誰も知らないのです。

強固な城塞だが王はいなかった?ミステリアスな都市構造

モヘンジョダロ遺跡は平城京のように平らな地面に区画を作って整備された町とは異なり、煉瓦を積み上げた城塞のような造りになっています。

数メートルの高さに煉瓦を積んで築かれた城壁の中に、やはり煉瓦を積んで道路や通路、階段などを形成。「これが紀元前のものなのか?」と、緻密で整然とした造りに驚かされます。

煉瓦で仕切られた区画の中には、住宅や共有施設があったと考えられていますが、驚くべきはそのインフラの充実ぶり。かなり高度な技術を用いた水道や下水道が設備されており、水が流れる水洗トイレもあったのだとか。公衆浴場や沐浴施設などもあり、人々は豊かで文化的な、快適な生活を送っていたようです。

その他、巨大な穀物倉の跡も。インダス川流域では農業が盛んだったため、食料の備蓄も行っていたと見られています。

紀元前2000年前後という年代から考えてもこの技術は驚くべきもの。古代ローマやギリシャの街づくりを上回る高度な文明があったと考えてよいのかもしれません。

遺跡の東側は住宅街、西側は少し高くなっていて東側を見下ろすような形状。高い位置に公共の施設があったと見られていますが、宮殿や神殿、軍備など、大きな国にはつきものの施設の痕跡は皆無。君主を持たない集団だった可能性も示唆されていますが、全容はまだ、明らかになっていません。

モヘンジョダロに暮らしていた人々はどこへ行ったのか

ローマも京都も、千年以上もの間、同じ場所に人が住み続けており、その土地の歴史や文化を後世に語り継いでいます。

では、モヘンジョダロはなぜ、忘れられた都市になってしまったのでしょうか。

これだけ高度な街を築いていながら、ここに暮らしていた人々はどこへ行ってしまったのか、なぜ誰もいなくなってしまったのか……。あれこれ想像したくなるところです。

「古代核戦争の跡地なのでは?」「伝染病や感染症の影響か」など、様々な説が飛び交いましたが、近年では、モヘンジョダロ衰退の原因は、おそらく大規模な洪水がおきたためだろうと考えられています。

さらに、最近の調査で、現在地上・地表に出ている遺跡の地下に、さらに古い遺跡が眠っていることが判明。遺跡は何層にも重なり合って、複数層になっていると考えられています。

地下に埋まっている遺跡は、もしかしたら世界最古の都市の遺跡かもしれない。しかしこのまま地球温暖化など気候変化の影響で地下水が上昇してしまったら、地下の遺跡は日の目を見ることなく朽ちてしまう可能性も。現在の技術では、遺跡にダメージを与えることなく掘り起こすことは困難であるといわれています。

まるでドラクエの町!想像を掻き立てる荘厳な古代都市・モヘンジョダロ

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誰も寄りつかない未開の土地で静かに時を刻み続けてきたモヘンジョダロ。同じ大きさの煉瓦をきっちり積み上げて作られた城塞を見ていると、茶色カラー一色の景色の中に、古代の人々が生き生きと暮らす様子が浮かび上がってくるようで不思議な気持ちになります。交易のためメソポタミアから旅をしてきた旅人が城壁の中に入り、町中の人々と会話を交わす……まるでロールプレイングゲームの名作・ドラゴンクエストの一場面のような光景が、この場所にあったのかもしれません。

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