事変の拡大
関東軍は奇襲攻撃により戦火を上げましたが、張学良軍は関東軍よりもはるかに多くの兵力を有しています。そのため、関東軍は隣接する朝鮮に駐留する日本軍に支援を要請しました。
朝鮮軍司令官の林銑十郎は独断で国境を越えて援軍を派遣します。本来、国外への出兵には天皇の許可が必要。しかし、林は内閣にも陸軍中央にも諮ることなく越境出兵させてしまいます。時の首相であった若槻礼次郎は出兵に反対でしたが、事後承諾せざるを得ませんでした。
満州事変は現地軍の行動を政府や陸軍中央が事後承認する最初の事例となってしまいます。朝鮮軍の支援を受けた関東軍は戦線を拡大しました。そして、1932年2月には満州北部のハルビンまで占領します。これにより、関東軍は満州全土の制圧を完了したのです。
第二次若槻礼次郎内閣の総辞職
憲政会の第二次若槻礼次郎内閣の基本方針は外務大臣幣原喜重郎が推進する協調外交でした。幣原外相は軍による謀略を疑いますが、自衛のための戦争であるという軍の主張を抑えることができませんでした。それでも、国際社会との協調を重視する若槻内閣は満州事変の不拡大方針を決定します。
関東軍は若槻の不拡大方針を無視し、戦線を北部満州や万里の長城付近にある熱河省まで拡大しました。さらに、国内では陸軍急進派によるクーデタ未遂である十月事件も発生。若槻内閣への揺さぶりが激しさを増していきました。
1931年12月、軍をコントロールできなくなった若槻礼次郎は内閣総辞職を選択しました。その結果、政友会の犬養毅が新たに内閣総理大臣となり組閣します。
国際社会の反応
満州事変に対してアメリカは強く反発します。アメリカは日本の軍事行動は中国の主権尊重や機会均等・門戸開放を定めた九カ国条約や、1928年に結ばれた不戦条約に違反するため認めることはできないという声明を出しました。
中国政府の蒋介石は日本の行動を侵略行為だとして国際連盟に訴えます。これに対して日本は国際調査団の派遣を提案しました。国際連盟は日本の提案を受けて、イギリスのリットン卿を団長とするリットン調査団を派遣します。
しかし、日本はリットン調査団の活動中にもかかわらず満州国の建国宣言や上海事件などを起こしました。特に、諸外国が租界を持ち国際都市となっていた上海への空襲は国際世論の強い反発を受けます。リットン調査団は現地をくまなく視察。1932年10月に国際連盟に報告書を提出しました。
満州国建国と五・一五事件
当初、関東軍は満州を日本が直接統治することを考えますが国際社会の反発などを考え、満州人による独立国家という形をとる方針へと転換します。関東軍が満州人のトップにするために目を付けたのが清朝最後の皇帝だった溥儀です。
皇帝の位を追われた溥儀は天津の日本租界に身を寄せていました。関東軍は溥儀を満州国の国家元首である執政として担ぎ出します。満州国は「五族(漢人・満州人・モンゴル人・日本人・朝鮮人)協和」や「王道楽土」を理想とする国家建設を掲げ、独立国家の体裁をとりましたが実際は関東軍が支配する傀儡国家に過ぎませんでした。
若槻のあとに組閣した犬養毅内閣は満州国の承認に消極的でした。1932年、犬養が五・一五事件で暗殺されると、あとを継いだ斎藤実内閣は満州国を承認します。
満州事変のその後
関東軍の独走に始まった満州事変は政府の不拡大方針にもかかわらず、関東軍による満州支配へと既成事実化していきました。日本による満州国の建国は諸外国の反発を受け、国際連盟総会で満州国の撤回を要求されます。反発する日本は国際連盟を脱退。孤立化の道を歩みました。
国際連盟脱退による日本の孤立化
1932年10月、リットン調査団による報告書が国際連盟に提出されました。調査団は日本の軍事行動は自衛とは認めらないこと、満州国は自発的な民族運動ではないこと、中国は満州における日本の権益を配慮すべきであるといった内容の報告書を提出します。
これを受けて1933年2月、ジュネーブで国際連盟の臨時総会が開催されました。総会では、日本による満州国承認の撤回や日本軍の撤退などを内容とする勧告案が賛成42、反対1(日本)で可決されます。
日本全権代表だった松岡洋右は勧告案を拒否。総会会場から退場してしまいました。1933年3月、日本は国際連盟からの脱退を表明。加えて1936年にはそれまで結んでいた軍縮条約であるワシントン条約やロンドン条約からも離脱。日本は孤立化していきました。