日本による満州進出
満州国建国後、日本の満州での利権は拡大しました。満州国は溥儀を執政(のち、皇帝)とする独立国家の形をとっていましたが、関東軍司令官の承認なし重要事項を決定することはできません。満州国の重要な役職は関東軍司令官が推薦する日本人が任命されます。満州国は日本によって事実上植民地化していたといってよいでしょう。
満州国に進出した日本企業は盛んに鉱産資源を採掘しました。南部の撫順炭田でとれる良質な石炭を鞍山製鉄所に持ち込んで製鉄業を盛んにします。また、満州国内で日本人は土地の所有や居住・営業権などを認められました。そのため、日本から多くの人々が満州や内蒙古に移民します。移民の数はおよそ27万人に達しました。
こうして多くの日本人が満州にわたりましたが、ソ連の対日参戦の結果、たくさんの人々が亡くなったりシベリアなどで抑留されたりしたため、日本に帰ることができたのは11万人にすぎません。
満州事変後、日本は軍国主義の要素を強めた
満州事変は関東軍の暴走でしたが、政党内閣である若槻礼次郎内閣は関東軍の動きを止めることができませんでした。後を引き継いだ犬養毅内閣は五・一五事件で倒されてしまいます。その後、日本国内では軍の発言力が著しく増大。1936年の二・二六事件以後は軍の政治介入が当たり前のこととなりました。満州事変は日本の軍国主義化の始まりだといえます。