明暦の大火における記録「明暦炎上記」より
今度焼失の覚
一、万石以上類火 百六十軒。
但し、万石以上焼失の残りは五十四軒。
一、物頭・組頭・番頭類火 二百十五軒。
一、新番組火 二百十軒。
一、小十人組類火 六十三軒。
一、御書院番組類火 百九十軒。
一、大御番衆 百四十軒。
一、町屋の類火は両町にして四百町、片町にして八百町、但し道程二十二里八町
三十六町壱里にしてなり。間数四万八千間。但し六尺一間積。
一、家主知らざる町屋八百三十軒余。
一、橋残りたるは呉服町丁の一石橋・浅草橋ばかり、此の外は皆焼失す。
一、焼死者三万七千余人、此の外数知らず、牛馬犬猫をや。
生まれ変わる江戸市街
この大火をきっかけに、人々は官民問わず防災意識に目覚めました。荷物や家財を運ぶのに小回りの利かない長持車が禁止され、重量物を載せても操作が軽い大八車が考案されました。また、江戸城大奥でも、通常の入り口とは違う【非常口】が設けられ、火事に備えたといいます。
そして何より大きく変わったのが、焼失後の復興計画でした。明暦の大火の教訓を基に、新しい市街に火避け地という空き地を設け、さらに家屋同士がなるべく隣接しないように道路の幅を広くしたのです。そうすることで家から家に火が燃え移るという類焼を防ぎ、人々が避難する時間的余裕も生まれたのでした。
火避け地を作ったり、道路が拡張されたことによって、火災に対する防災意識は高まりました。しかし、その余裕を作った分、そこに住める人口は限られてきます。
そこで幕府は、人々を積極的に外堀の向こう側へ住まわせたのでした。さらに災害時の避難誘導のために両国橋を新しく架けたのです。外堀とは元来、江戸城を守る大事な外郭のはず。しかし、あえて軍事目的を捨ててまでも方針を防災目的へと変換したのでした。
こうして外堀の向こう側に、新しい新興住宅地がたくさん形成されました。それが両国や本所、深川など、現在の東京の下町と呼ばれる地域を造り上げていくのです。これらの新興住宅地が増えることによって、江戸はますます人口を増やし、やがて【大江戸】と呼ばれることになります。
江戸のファイアーマン~火消たちの活躍~
史上最悪となった明暦の大火の後、新しい都市計画とともに防災の目玉となったのが火消(ひけし)という制度でした。江戸時代初期には、江戸城の建物を防火するという目的でしか制度化されていませんでしたが、官民一体となって防災意識が高まった後には、まさに江戸を代表する大きな組織となっていったのです。
武士たちによる火消が発足【武家火消】
江戸時代に存在していた火消で有名なのは、町火消と武家火消なのですが、実は武家火消のほうが先に発足しています。理由は、市街地がまた復興途中であり、町人たちが火消を組織化するにはインフラがまだ整っていなかったからです。町火消が登場するのは明暦の大火から50年ほど経った享保の頃でした。
武家火消は、参勤交代で江戸に在府している大名たちの中から選ばれるものと、幕府直轄の旗本御家人たちの中から選抜されるものの2系統が存在していました。彼らは、北西からの乾いた風による江戸城の延焼を防ぐことが主任務でしたが、武家屋敷や町人地に関わらず消火活動に当たったといいます。
ちなみに、老中稲葉正則率いる武家火消が、上野の東照宮で意気軒高に出初を行ったことから、【出初式(でぞめしき)】の慣習が起こりました。
しかし、この武家火消は大名や旗本を合わせても2千人ほど。町火消を主力とする本格的な火消制度が江戸に定着するまで、もう少し時間が必要でした。
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町人たちによる火消しの登場【町火消】
8代将軍徳川吉宗の時代、いよいよ満を持して町火消が登場します。町人自身に火消を組織させ、運営金も町ごとに負担するという手法は、当時財政難で苦しんでいた幕府にとっても願ったりかなったりだったことでしょう。
町火消の組織は最終的に【いろは四八組】【本所深川十六組】として落ち着きますが、幕末に至るまでの約150年間、まさに町火消が江戸の町を守ったといっても過言ではないでしょう。江戸城が火災に遭った時などは、武家火消ではなく、町火消が主力になって活躍しています。
町火消のシンボルでもある纏(まとい)は、各組ごとに意匠が違い、元々はこれを目印にして火消人足たちを集めるための目印だったのですが、いつしか個性をもって代々受け継がれていくものになっていきました。まさに火消の心意気を表したものだったのですね。
この町火消の導入によって、江戸のファイアーマンは1万人規模を数えるほどになったのです。
火消の消防技術とは?
対災害インフラが整っている現在とは違い、当時は街角に天水桶という防火用水があったくらいで、ボヤ程度しか消せませんでした。基本的には破壊消防といい、火が迫る方向を見定めて、事前に家屋を破壊して延焼を防ぐという方法でした。町火消には竜吐水という原始的なポンプもあったのですが、火を消し止めるだけの威力はなく、せいぜい建屋に水を掛けて類焼を遅らせる程度のものだったのです。
必然的に火消たちが持つ道具も、建物破壊用のものでした。鳶口(とびぐち)や刺又(さすまた)は建物に引っ掛けて引き倒すためのもの。大団扇(おおうちわ)は大きく振って火の粉の飛来を防ぐもの。そして町火消の花形である纏(まとい)は、屋根の上に登って消火の最前線であることを指す目印になりました。纏持ちの役目が最も危険で、屋根の上にいるために逃げられず、多くの者が犠牲になったといいます。
現代であれば、勝手に家を壊されると、それこそクレームや損害賠償沙汰になりそうなのですが、江戸の頃はそんなことを言っている暇がないほど切迫していたのでしょうね。