三国時代・三国志中国の歴史

項羽と劉邦、二人の英雄の物語「四面楚歌」由来をわかりやすく解説

四面楚歌は周りが敵だらけで助けがない孤立無援の状態であることを意味しています。この言葉の由来は今から2200年前の故事。司馬遷の『史記』に描かれた二人の英雄の戦いがもとになっています。二人の名は項羽と劉邦。司馬遼太郎の作品でも有名ですよね。二人の力の差は歴然としていて、項羽の圧倒的優位でした。ところが、最終的には劉邦が大逆転して項羽は「四面楚歌」の状況に置かれてしまいます。今回は、四面楚歌の由来となった項羽と劉邦の戦い全体と四面楚歌の場面について解説します。

始皇帝の死と二人の英雄の登場

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紀元前221年、始皇帝は中国にあった六つの国を滅ぼして中国を統一。始皇帝は言葉や貨幣を秦のものに統一し逆らうものは厳しく罰しました。秦の厳しい法律による支配は人々の反感を招きます。

始皇帝が紀元前210年に死去すると各地で反乱が勃発。特に、秦と並ぶ強国だった楚の地域での反乱は強力でした。やがて、反乱軍は一つの勢力にまとまります。その中で頭角を現したのが項羽劉邦でした。

江南の英雄、項羽

姓は項、名は籍、字は羽。本来なら項籍とよぶべきですが、よく知られた名である項羽とよぶことにしましょう。項羽は楚の将軍、項燕(こうえん)の孫。『史記』の項羽本紀によれば、身長が8尺2寸(約190cm)の大男で地元一番の力持ちだったといいます。

おじの項梁(こうりょう)に兵法を学びました。陳勝・呉広らをはじめ、各地で秦に対する反乱がおきると項梁にしたがって挙兵。地元の若者ら8000人の兵を率いて秦軍と戦いました。挙兵以来70回以上の戦いを経験しますが、敗北は最後の一度だけ。この時代、圧倒的な強さを誇った猛将でした。

項梁を中心とした反乱軍は楚の王族を探し出して王とし、楚の復活を宣言。さらに勢力を拡大しました。ところが、項梁は秦の主力軍の奇襲攻撃を受けて戦死。おじの死を知った項羽は慟哭したといいます。項羽の死後、反乱軍のトップは宋義という人物になり、項羽はその下で副将となりました。

飲んだくれの田舎役人、劉邦

劉邦は農民の子に産まれました。しかし、生まれてこのかた農業などの地味な仕事が大嫌い。酒場で飲んだくれる毎日でした。ところが、劉邦にはなぜか不思議と人望がある。彼が酒場に来ると自然と仲間が集まり満席になるので酒場は劉邦が来るのを歓迎しました。

やがて、彼の人望を見込んだ地元政府から田舎の警察署長の仕事を依頼されます。劉邦は工事現場に労働者を連れて行く仕事を任されました。現場到着の期限に遅れたり、人数が足りなくなれば引率者も厳罰に処されます。工事現場での過酷な労働を嫌った労働者が逃亡し始めると、なんと、劉邦自身も逃亡。それからしばらくは山賊のような生活をして暮らしました。

各地で反乱がおきると劉邦の郷里である沛(はい)も混乱状態。劉邦は彼と親しい役人の手引きにより沛の支配者となりました。そのころ勢力を拡大していたのが項梁です。劉邦は彼の支配下にはいりました。こうして、項羽と劉邦は同じ陣営に属することになったのです。

項羽と劉邦、二人の性格比較

項羽と劉邦はとても対照的な性格です。二人の性格を比較するうえで始皇帝の行列を見た感想がよく引き合いに出されます。

始皇帝は統一した各地の視察を熱心に行いました。自分が新たな天下の支配者だと民衆に知らしめるためだったのでしょう。行列を見た項羽は「ぜってーあいつにとって代わってやる!」。対する劉邦は「スゲーなぁ、やっぱりあんなふうになりたいもんだな」といったと伝えられます。

項羽は喜怒哀楽が激しく、好き嫌いの感情もはっきりしていたようです。虞美人や自分のお気に入りの部下は優遇する一方、気に入らなければ有能であっても取り立てません。劉邦は「使える」と見込んだらとことんまで相手に任せ部下が正しいと考えれば、素直にその意見に従いました。

何でもできて有能だが喜怒哀楽が激しい項羽、個人としての能力は高くないかもしれないが人に任せて上手に調整する劉邦。有能な人ほど劉邦のもとに集まるのは自然なことだったのかもしれませんね。

秦の都、咸陽を目指して

項梁の死による混乱をようやく立て直した楚は軍を二手に分けて秦の都、咸陽を目指すことにしました。楚の主力軍を率い最短距離で進むのは宋義・項羽、距離は遠いが裏道を進み咸陽の背後を目指すのが劉邦です。先に到着したものを咸陽を含む「関中王」に任じると約束してのことでした。

このころ、秦の主力軍はある城を囲んでいました。宋義は城攻めで秦軍が消耗するのを待とうとゆっくり進軍。これに我慢がならなかったのが項羽でした。項羽は宋義を殺して指揮権を奪うと秦の主力軍と正面から戦闘、これを撃破します。項羽は降伏した秦の兵20万人をことごとく殺しました。

一方の劉邦は部下のアドバイスを受け入れ「戦わないなら殺さず、今までの支配を認める」と伝え各地の秦軍を降伏させていきました。無駄な戦闘をほとんどしないで済んだため項羽よりも早く咸陽に到着します。

ところが、項羽が咸陽に到着すると立場は逆転。劉邦は秦の領土でも特に辺境の漢中を与えられ漢王とされました。一方の項羽は楚の王を追放し、自ら西楚の覇王となのりました。

楚漢戦争~項羽と劉邦の直接対決~

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項羽によって辺境に追放同然とされた劉邦。しかし、劉邦のもとには有能な人材がたくさん集まっていました。劉邦は彼らの力を借りて項羽に戦いを挑みます。

一方の項羽は各地で起きる反対者による反乱に苦慮していました。項羽の少ない味方はスクランブル状態で各地の反乱軍と戦っていたのです。項羽と劉邦の戦いはどのように進み、四面楚歌の場面へと移っていったのでしょうか。

漢の大将軍、韓信の快進撃

劉邦は辺境から脱出するため、一人の人物に軍の指揮権を預けました。その人物こそ韓信。のちに、項羽と垓下(がいか)で対陣する人物です。彼は項羽から咸陽とその周辺の警備を任されていた軍勢をあっという間に蹴散らすと項羽に味方する諸国を次々と攻め落とします。

韓信は無敵に近い項羽とまともにやりあうより、周囲の国々を攻め落とすことで項羽を弱らせようと考えたのでしょう。この狙いは的中し項羽と提携する国々は滅ぼされたり降伏したりしたので徐々に項羽は孤立します。

一方の項羽は劉邦の主力軍と激闘を繰り返していました。項羽は戦いには勝つのですが、あと一歩のところで劉邦を取り逃がすことを続けます。この状況を打開するため項羽は劉邦を追い掛け回し、ついに広武山というところで劉邦を補足することに成功しました。

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