4. 三顧の礼によって劉備と諸葛亮が得たもの
劉備が三度も自分のところを訪ねてきてくれたという事実に感銘を受けた諸葛亮は、劉備の配下に加わることを承諾します。そして彼が劉備に授けたのが、「天下三分の計(てんかさんぶんのけい)」という策でした。これによって、鳴かず飛ばずの武将だった劉備が、曹操の「魏」や孫権の「呉」に対抗する「蜀」を建国し、両者と拮抗するまでの力を持つようになっていきます。三顧の礼の意味とはなんだったのか、それも合わせて見ていきましょう。
4-1. 諸葛亮が授けた「天下三分の計」
徐々に名前が知れ渡っていたとはいえ、まだ誰にも仕えず、功績も挙げたことのない20代半ばの若造である自分に対し、50歳近くの劉備がわざわざ三度も訪ねてきてくれたことは、諸葛亮にとっては光栄の極みだったことと思います。
そして諸葛亮は劉備に仕えることを承諾すると、「天下三分の計」について語り始めました。
強大な曹操に対抗するためには、天下を三分してそのうちのひとつを取るしかない、と。華北の曹操、華南の孫権、ならば劉備は奥地の益州(えきしゅう/四川省、陝西省)と荊州を本拠地とし、天下を三つに分けて支配すべしというのが、諸葛亮の意見だったのです。
これに関しては、劉備にとっては目から鱗が落ちたような意見でした。これまで確たる策もなく、曹操と戦って敗れることの繰り返しだった彼には、進むべき道がはっきりと示されたんですね。それは劉備にとって実に大きな指標となったのです。
4-2. どうして後世にまで残る逸話となったのか
それにしても、なぜこの逸話が後世にまで語られる逸話となったのでしょうか。
「三国志演義」の登場により、劉備と諸葛亮が歴史的なヒーローとなったことは最大の要因です。その一方、中国の歴史においては例外とも言える出来事だったということも理由の一つとして挙げられるでしょう。
というのも、当時劉備は50歳近く、諸葛亮は20代半ば。親子ほどの年の差があり、しかも、年上の劉備が年下の諸葛亮に「ぜひ部下になってほしい」と頭を下げた格好でした。
儒教がベースの中国社会では、何といっても「年下の者が年上の者を敬うこと」が重んじられます。これが社会的規範として確立していた中で、目上であるはずの劉備の行動は異質であり、画期的なことだったのです。
そして、諸葛亮をブレーンとして迎えた後、劉備は蜀建国し、三国時代の主役として歴史に名を残したのでした。
4-3. 劉備と諸葛亮の「水魚の交わり」
ちなみに、念願かなって諸葛亮を迎えることができた劉備は大いに喜び、何かと彼を重く用いるようになりましたが、そうなると劉備の義兄弟としてこれまでそばにいた関羽と張飛が機嫌を損ねてしまいます。
そんな2人に対し、劉備は「自分が諸葛亮を必要としているのは、魚に水が必要なのと同じなのだ。頼むから、文句は言わないでくれないか」と諭します。これが「水魚の交わり」と呼ばれる話ですね。
劉備にここまで言われては、関羽と張飛は受け入れざるを得ず、以後、彼らも諸葛亮を受け入れるようになったということです。
それほどまでに、劉備にとって諸葛亮は得難い人材だったのですね。
また、諸葛亮は戦や外交、内政などすべての面において活躍し、劉備陣営で欠かせない存在となっていきました。三顧の礼で迎えた甲斐があり、それ以上の価値がある人材だったと言えるでしょう。そして、才能を埋もれさせていた彼にとっても、自身の名を歴史に刻むことができたのですから、劉備は誰にも代わることのできない主君だったのです。
4-4. 日本にもあった「三顧の礼」
ちなみに、日本の戦国時代にも三顧の礼のエピソードがあるんですよ。
豊臣秀吉は、戦国屈指の軍師と呼ばれた竹中半兵衛(たけなかはんべえ)を三顧の礼で迎えたという逸話が伝わっています。半兵衛は、わずか17人で城を乗っ取るなど、鮮やかな計略が持ち味の軍師でした。後に彼は、黒田官兵衛(くろだかんべえ)と共に、秀吉の「両兵衛(りょうべえ)」とうたわれるようになります。
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現代にまで生き残った「三顧の礼」という言葉
三顧の礼のエピソードは、儒教の概念を覆した驚きの出来事であり、三国志のヒーローたちの理想の姿であり、その後の彼らの歩む姿に「忠義」や「寛容」といった美徳を見出す一因となりました。三国志演義によって脚色されたとはいえ、こうした美談はいつまでも好まれるものです。時折、現代の私たちの生活の中に登場する故事由来の言葉は、こうした逸話から生まれるものが多いんですよ。一生に一度、三顧の礼で迎えられたら、人生はどんなにか充実したものになるのでしょうね。
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