三国時代・三国志中国の歴史

三顧の礼の意味と由来は?類語や誤用の例は?歴史的背景もわかりやすく紹介!

2-3. 三国志は「正史」と「演義」がある

中国の歴史の中でも割とポピュラーな三国志ですが、「正史(せいし)」「演義(えんぎ)」というものがあります。

中国は王朝が代わる度に前王朝の歴史書がつくられ、これが正式な記録として残されるのですが、三国志の「正史」がこれに当たるものです。

一方、「演義」というのは、明代に入ってから講談のテーマである「三国志演義」としてつくられたもので、史実に沿ってはいるものの脚色も多い創作物なんですよ。この「三国志演義」がとても人気があるものだったので、どうしても史実と脚色がない交ぜになってしまうことが多いんですね。

3. 三国志の中の超有名エピソード「三顧の礼」

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先ほど触れたとおり、今回ご紹介する三顧の礼についても、正史の記述と演義の内容では少々異なる部分があります。どちらかというと、歴史書である正史にはドラマ的な要素は少なく、事実を簡潔に述べていく傾向があるようです。そして三国志演義になると、物語としての面白さを盛り上げる部分が大きくなっていくんですよ。それを踏まえた上で、三顧の礼というエピソードを見ていきましょう。

3-1. 正史「三国志」による三顧の礼

まずは、正史の記述について簡単に触れていきましょう。

劉備のもとに出入りしていた徐庶が、諸葛亮のことを耳に入れるところは正史・演義共に共通です。

諸葛亮が逸材であることを聞いた劉備は、徐庶に彼を連れてきてほしいと頼みます。

しかし徐庶は、「自分が呼んだくらいでは来るような男ではありませんので、あなたが自ら出向いて礼儀を尽くさないといけません」と答えました。

そこで劉備は諸葛亮のもとを三度訪れ、ようやく会うことができた…これが、非常にシンプルな記述ではありますが、正史の三国志の記述です。

劉備が三度訪れ、結果として諸葛亮が仕えるようになったということからも、「三顧の礼」がいちおうは成立していたことがわかりますね。

3-2. 三国志演義に登場する三顧の礼:史実以上の評価を受けた諸葛亮

では、三国志演義の三顧の礼のエピソードはどうでしょうか。

そもそも、徐庶が曹操の計略によって、劉備のもとを離れ、曹操に降らなくてはならなくなるという話に変わっており、徐庶が置き土産として「自分の代わりに諸葛亮を」との思いで推薦するところから始まります。

また、人物鑑定家として名高い司馬徽(しばき)が、諸葛亮を「臥龍(がりゅう)/伏龍(ふくりゅう)」と評していたという設定となっており、諸葛亮がいわば「眠れる獅子」的な扱いを受け、より神秘的で人間離れした能力を持つ人物として評価されているということになっていますよ。

そして劉備は「それほどの人物ならば!」と、諸葛亮の草廬に出向くこととしたのでした。

3-3. 行っても留守ばかり、それでもめげない劉備

一度目の訪問は空振りに終わりました。諸葛亮は友人宅に出かけており、いつ戻ってくるかわからないというのです。どうしようもないので、劉備一行は引き返すことにしました。

そして二度目の訪問となりましたが、なんと真冬で大雪の日に当たってしまいます。劉備の義兄弟で猛将の張飛などは文句を言いますが、劉備は「こんな時だからこそ、行けば気持ちが通じるかもしれないぞ」と淡い期待を抱き、雪道を急ぎました。

ところが、その期待もあっさりと砕かれることになります。またも諸葛亮は不在だったのです…。

3-4. 諸葛亮在宅も昼寝中…やはり劉備はめげなかった

それでも劉備はめげません。もう一人の義兄弟・関羽にまで苦言を呈されながらも、三度目の訪問を決行したのです。

すると、今度は諸葛亮が在宅していました。ところが、彼は昼寝中だと…。

劉備は「起こすのは忍びないので、待っている」と言い、ひたすら待ち続けます。どれだけ忍耐の人なのかと思いますが、これもまた三国志演義のミソ。劉備という人物がどれだけ度量の広い男なのかを演出するための要素なんですね。

そしてようやく目覚めた諸葛亮と劉備は、ついに対面を果たし、諸葛亮は劉備の配下に加わった…というのが、三国志演義における三顧の礼のエピソードとなります。

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