ヨーロッパの歴史

中世ヨーロッパの大事件「カノッサの屈辱」をわかりやすく解説!

カノッサの屈辱。この事件名だけでも十分インパクトがありますが、その内容はさらに驚くものです。時は11世紀、キリスト教会のトップである教皇グレゴリウス7世と中世ヨーロッパでもっとも大きな国である神聖ローマ帝国の皇帝ハインリヒ4世が対決し、ハインリヒが屈服した大事件です。雪の中、カノッサ城の前で三日三晩ひざまずく皇帝とそれを見下ろす教皇。ドラマチックな名場面ですが、事件の背後には何があったのでしょう。今回はカノッサの屈辱の概要について紹介します。

中世ヨーロッパ世界の2トップ、教皇と皇帝

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中世ヨーロッパでは各国を支配する王や皇帝たちの力である世俗権力とキリスト教会の上層部である大司教や教皇などの聖職者の権力が併存していました。

皇帝や王、貴族たちは領民から税をとっていましたが、教会も十分の一税を取り立てることができました。修道院や大司教は自らの領土すら持っていました。中世ヨーロッパの独特なこの仕組みについて、解説します。

中世ヨーロッパの封建制度

ローマ帝国の崩壊後、ヨーロッパ各地は各地の有力者である皇帝や王や貴族を中心にまとまりました。彼らは互いに土地を仲立ちとした契約を結びます。これを、封建制度といいました。

皇帝・王「この土地の支配権をお前に認めよう」、貴族「それなら、私はあなたのために90日戦争に参加しましょう。」というような約束を交わしていたのです。これは、かなりドライな契約で、契約日数を過ぎると貴族たちは容赦なく戦場から引き上げました。

皇帝や王といえども契約満了後の彼らを引き留めることはできなかったのです。近代ヨーロッパに現れる「絶対王政」の君主のように、強気で臣下に命令することなど不可能でした。

神聖ローマ帝国とは何か

神聖ローマ帝国とはドイツやイタリアを中心に存在した国家です。東方からの異民族の侵入を食い止めた東フランク王のオットー1世がローマ教皇からローマ皇帝の位を授かることによって成立しました。

帝国の中心部であるドイツでは地方を支配する貴族(諸侯)の力が強力で、皇帝の命令に逆らうことも珍しくありませんでした。そのため、歴代の皇帝は皇帝権を強めようとします。諸侯はその動きに反発し、時に正面から、時に外国勢力と手を組んで皇帝に対抗しました。

ローマの名にこだわった歴代皇帝はしばしばイタリアに出兵。その結果、ドイツの支配がおろそかになります。しかも、イタリア進出はローマにいた教皇との対立を招くことも多かったのです。

ローマ教皇(法王)とはどんな存在か

ローマ帝国崩壊後、侵攻してきたゲルマン人への布教に成功することでローマ教会は力を伸ばしました。800年にフランク王のカール大帝が西ヨーロッパを統一するとカールと協力することでさらに力を伸ばします。こうして、力をつけ独立性を強めたローマ教会のトップが教皇です。

教皇は枢機卿(すうききょう)などの高位聖職者から選挙で選ばれました。教皇は各地の聖職者(特に、司教や大司教といった高位聖職者)の任命権(叙任権)を持っています。この権利をめぐって、のちに教皇と皇帝が激突。それが、カノッサの屈辱の背景です。

教皇は教会のトップであると同時にローマを中心とするローマ教皇領のトップでした。教皇は聖職者としての顔と、教皇領の主としての顔の二つの面を持っていたのです。

カノッサの屈辱~教皇が皇帝に勝利した瞬間~

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世界史の用語集などを調べると、カノッサの屈辱は聖職者の任命権(聖職叙任権)をめぐる皇帝と教皇の争い(叙任権闘争)の表れとして説明されています。

どうして、教皇グレゴリウス7世はあんなに激怒し、どうして、皇帝ハイリンヒ4世は雪の中で三日三晩もひざまずかねばならなかったのでしょう。教皇と皇帝、二人の背景を探ることで事件の原因を探り出しましょう。

グレゴリウス7世~教会の規律回復を目指す改革派教皇~

教皇グレゴリウス7世はフランスのクリュニー修道院出身の教皇だといわれます。クリュニー修道院は厳しい戒律の厳守などをかかげていました。

彼は教皇に即位するとお金で司教や大司教などの教会の職(聖職)の売買を禁じます。聖職が売買された理由は、高位聖職者になると領地を持ち豊かな暮らしが約束されたからでした。また、本来なら結婚できないはずの聖職者が公然と結婚するなど教会の規律が乱れていきますが、グレゴリウス7世はこれも禁止。これらの改革をグレゴリウス改革と呼びました。

特に聖職売買については、皇帝や王、貴族といった世俗の権力が教会の人事に口を出すことが原因だと考えていました。高位聖職者の任命権を叙任権といいます。グレゴリウス7世は「叙任権は教会・教皇にある」として皇帝や王に口出しさせないようにしたかったのでしょう。

ハインリヒ4世~権力強化を狙う神聖ローマ皇帝~

ハインリヒ4世は父の急死により1054年にわずか6歳で皇帝となりました。15歳の時に自分で政治を行う親政をはじめます。しかし、広大な領土を持つ神聖ローマ帝国を束ねるのは並大抵の苦労ではありませんでした。

帝国内には皇帝の地位を脅かしかねない大貴族(封建諸侯)がいて、ともすれば皇帝ハインリヒ4世の意向に逆らいがち。こうした中、ハインリヒが政治の手段として重視したのが教会でした。

高位聖職者に自分の息のかかった人を送り込むことで封建諸侯をけん制したのです。しかし、教皇グレゴリウス7世は皇帝が教皇を飛び越えて勝手に高位聖職者を任命することを許しません。高位聖職者の叙任権をめぐって皇帝と教皇の対立が深まっていきました。

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